世界への第一歩

「冴羽商事はアフターサービスが売り」と言ったのは
取締役社長の方だが、依頼人のお見送りまでが
我が社の業務内容といっても過言ではない。
だから今まで依頼人の数多くの背中を見送ってきた
ある人は駅で、ある人ははるばる空港まで
そして、案外見落とされがちだけど
新宿駅と同じくらい、あたしたちにとって身近な場所でも……

「いいの? 空港まで送るのに」
「そこまで冴羽さんたちのお手を煩わせたくないですから」

と、大きなスーツケースを傍らに彼女が
にっこりと笑みを浮かべるのは、駅の西口
その横を営業のビジネスマンや買い物客が
ひっきりなしに通り過ぎていく、日常のど真ん中。
だがここは空港行きのリムジンバスの発着場でもあるのだ。

「煩わせるどころか、つれないなぁ
ひとみちゃんとのドライブなら何時間でも大歓迎なのに」

なんていつもの歯の浮くような言葉を並べながらも
撩の視線は彼女の顔ではなく、健康的なショートパンツから
伸びる太すぎもなく細すぎもない太腿に注がれていた。
彼女を助手席に乗せて、撩が空港までの数時間
どんな不埒な行為に及ぶかは火を見るより明らかだ。

「もう座席も取っちゃいましたし」

そうひとみさんはぺこりと頭を下げた。
長年の夢を叶えるためのロンドン留学が決まった矢先
トラブルに巻き込まれてのXYZ、それも片がつき
ようやく今日、その第一歩を踏み出すのだ。

「でも香、ここでいいんだよな」

横に立つ相棒が訝しげにあたしを見下ろす。
撩が心配になるのも無理のないことだ
新宿西口だけでも、駅前から都庁そばにかけて
高速バスの発着場が点在しているのだ。
なのでひとえに「西口」といっても
バス業者によってはてんでばらばら、
ここだと思って待っていたら、実は違うバス停で
気づいたときにはもう出発した後……という悲劇もありうる。

「大丈夫よ、さっきカウンターで聞いたもの
空港行きのバス停はここだって」
「ふぅん、空港行きねぇ……」

と撩が意味深に呟く。

「にしても遅いんじゃないか?」
「電車とは違うもの。道路を走るものだから
多少の遅れはつきものよ」
「それにしたって、ここが始発地点だろ?
なら余裕をもって来るもんじゃないのか」

確かに、もうバスの出発時間のはずだから
そもそもここに停まっていなければおかしいのに。
ふと通りの向かいを見遣ると、そこに
彼女が乗るはずのと同じカラーリングの車体
そして表示には「成田空港行き」。

「あぁっっっ!!」

そのとき初めてバス停の表示を確かめた
空港は空港でも、ここは羽田空港行きの乗り場だった。
もちろん、ひとみさんの目的地は新東京国際空港
つまり日本の空の玄関口・成田。
折しも時は発車時刻ぎりぎり――

「ちょっとーーっ、そのバス待ってーーーっっ!!」
「バカっ、死ぬ気か!?」

撩が腕を掴んで止めるのも無理のないことだ。
通りといってもそこは新宿駅の目の前
片側3車線を車が途切れることなく通り過ぎていく。
そこを青信号でもないのに渡ろうだなんて
我ながら命知らずにも程があった。
すぐ横には地下道の入り口、そこを通れば
安全に向こう岸まで辿り着ける、が
すでにバスはぷしゅっと油圧の音を立てて
扉を閉ざしてしまったのだ。再び地上に出たところで
そのときはもうバス停はもぬけの殻に違いなかった。

「――すぐ車出すぞ」

荷物もあるからここまでクーパーで来たのだ
その荷物を再びトランクにしまえばいいだけのこと。

「えっ、でも――」
「どうせ通るのは同じルートだ。成田で追いつけるさ
こっちの方が小回りは利くから、なんなら追い抜けるだろうし」
「手続きとかである程度の余裕は見越してバス取ってますし
それに20分も待てばまた次のバスが――」

と言いつつ、その日は彼女の搭乗券に間に合う便は
すでにどれも満席で、結果、撩の言うとおり
いつものように成田までのお見送りコースとなった。
だけどいつもと違うのは、あいつがひとみさんの
健康的な太腿には目もくれず、スピード違反&無理な割り込みの連続で
警視庁の高速隊に目をつけられ、派手なカーチェイスの末に
都県境で振り切ったと思いきや、そこに待ち受けてたのは千葉県警で
さらに成田まで追いかけられ、後で冴子さんに
ずいぶんな借りを作る羽目に、という余計なおまけまで付いてしまった。

「――おかげで最後の最後まで、冴羽さんたちには
ドキドキハラハラさせてもらいました。それも
今となっては良い思い出です、だってよ」

あれから数ヶ月過ぎ、依頼も幸いいくつかこなし
彼女とのことも記憶の1ページに整理された頃
イギリスからエアメールが届いたのだ。

「何が『良い思い出』だよ、こっちはあのとき
ずーっと肝を冷やしっぱなしだったんだからな」

と言う撩も浮かべる表情はむしろ苦笑いで、

「でもロンドンかぁ……遠いなぁ」

文面からあたしの視線は窓の外へと移った。

「そうでもないさ」

同じ方を見やりながら、撩が言った。

「彼女も俺たちも、同じ空の下にいるんだから」

そう、この街の空も続いているのだ。世界中のどこかへ。

東京・新宿、バス玄関集約 利用者「便利になった」:毎日新聞