はちすのうてな

【Caution ※ 注意!】
ブツブツしたものを目にするのが嫌いな方、苦手な方は
続きを読まないことをお勧めします!
その症状が悪化ないしは固定化され
こじらせてしまいかねませんので……
事実、店主自身がそうなってしまいました【泣】

ここには「薬物治療の知られざる権威」にすがりに
今まで何人もの中毒患者がやって来た。
その名は表の医療界では決してはっきりと
口に出されることはないが、それでもその道の第一人者が
匙を投げだすような重症例たちが、ジャンキーたちの噂話
または前主治医からの“耳打ち”を頼りにこの門を叩く。
それゆえ、入院が一気に殺到することはなくとも
患者が絶えないというのは嘆かわしいことでもある。

「じゃあ剥がしますよー」

と、頬に貼られたドレッシング材を取る際に
視線を全くそらせはしないものの
ついその中身からは焦点を外してしまう。
今回の患者は、性質の悪いことに梅毒も併せ持っていた。
聞いた話だが、薬物中毒者の中には
ベッドでそれを常用する者も少なくないという。
快感の二乗にますます嵌ってしまうのだろう
目の前の男も、それで性病を被った口に違いなかった。

しかも、さらにひどいことにヤク中ゆえに病院とも縁遠くなり
今どき教科書でしか目にすることのないほど症状は進んでいた。
素直に医者にかかれば、今では抗生物質で治療可能だというのに。
具体的には、まぁ早い話が「鼻欠け」の一歩手前。
江戸時代には当然治療薬も無く、一方で遊郭などで
性感染症が蔓延していたので、そういう例も珍しくなかったのは
時代劇ではとても再現できない実情だった。

彼の場合、ゴム腫で顔に結節性の潰瘍が生じていた。
梅毒の治療自体は薬物中毒の治療と両睨みで
その結果、後者に悪影響が出たらいったん中止して
あくまで薬物の方を優先させなければならない。
もっとも、ここまでひどい潰瘍だと治っても瘢痕
つまり「あばた」として残ってしまいかねないが。

何度やっても慣れることのない悪寒に悩ませられながら
今日も無事、潰瘍を覆い治癒する被覆材の交換を終えた。
一息ついても心因的に下がった体温は戻った気配は無かった。

「ほぉ、手当は済んだようじゃな」
「教授」
「醜いものを目にした後は、きれいなものを見て
目の消毒をするのが一番じゃ」

この屋敷兼ラボは、都心からほど近いとは思えないほど
空気が澄んでいるように感じられる。
その一因はこの広々とした庭だろう。
大名屋敷もかくやという日本庭園には木々や
色鮮やかな季節の花々が美しく配置されている。
その一角を占める池の前に佇めば、水面を渡る風が
季節は夏から秋へと移り変わりつつあると告げていた。

「おや、もう蓮の実が枯れかけておるわい」

そう教授がステッキで示した先に視線を向けた瞬間
さぁっと脳から血液が失われていくのが感じられた。
危うく、石造りの太鼓橋の上から池に落ちるところだった。

「大丈夫かの、かずえくん」
「え、えぇ……」

正直「大丈夫」ではなかった。
その枯れかけた蓮の実の中では種が大きく育ち
その結果、乾燥した実の一部が崩れ
種がそこから隆起していた。その様子が
さっきまで直視しないようにしていた傷口と
重なり合ってしまったのだ。

私は医学部に入ったものの、卒業後は臨床を選ばず
そのまま研究の道へと進んだ。それは
生来の引っ込み思案のせいもあるが
もしかしたら……このせいもあったのかもしれない。

「昔から、ぶつぶつしたものが嫌いだったんです」
「ほぉ」
「特に……例えば、小さな吹き出物が
一面にびっしりと並んでいて
その全部が全部、頂上が崩れて
カルデラ状になっているようなのが……」

特に皮膚科に進めば、その手の症例は
日常的に目にすることになる。
そのことを想像するだけで卒倒しそうになった。
――子供の頃から図鑑を見るのが好きで
中学高校では科学部、生物部だったはずなのに
ある種のフジツボは写真を見るだけでも嫌だった記憶がある。

「ふむ。でもそういうのはニキビの跡とかで
目にすることもあるじゃろ」
「そういう月のクレーターのような風化したのは
平気なんですけど、現在進行形で膿を持ったようなのは……」

口にするだけで吐き気を催してきそうだ。

「なるほどのぉ。かずえくん、お前さんには
トライポフォビアの気があるようじゃの」
「トライポフォビア?」

あいにく、精神医学の方はそれほど
詳しいというわけではなかった。

「集合体恐怖症ともいうがな、つまりは
ブツブツしたものが苦手というわけじゃ。
ダメな者は蜂の巣もダメというがのぅ」

ハニカム構造のような規則的なものは見ても何も思わない。
ただ、有機的というか大きさに大小のあるもの
そして立体感があるものが特に駄目なようだ。

「まぁ、それほど珍しいことでもないようじゃがな
女性だと16%から20%ほど当てはまるというそうじゃ」

ま、撩の飛行機恐怖症よりは仲間が多そうじゃのぅと
からからと笑うので、つられて私も少しだけ笑顔になる。

「それに、あながち意味のない恐怖症というわけでもなさそうじゃ。
例えば、そういったブツブツ状の発疹を引き起こす感染症の中には
天然痘など死に至る病も含まれておる。
もしそういった形状が訳も無く怖いというなら
近づかないようにした結果、感染を免れるじゃろうし
そういう者が少なからずいる集団なら、発疹のある者を
穢れ、または呪われたものとして隔離したじゃろう」
「隔離、ですか」

それは現代の感染症治療のそれとは違うものだろう
元の集団からは物理的、心理的に引き離され隔絶し
訪れる者も誰一人いない。当然、病気により衰弱し
起き上がることさえままならなくなったら――
病魔より先に、飢えや乾きが
患者たちの生命を奪ったのかもしれない。

「そういう性質を持った者たちは、結果として
生き永らえることができた、だから今もこうして
迷惑な恐怖症として残っているというわけじゃ。
ま、キリンと同じ一種の自然淘汰ということじゃの」

だから気にするでないと教授は言う。
とはいえ、花の終わった蓮の池を眺める気にもなれなかった。
もちろん今までも蓮の実は目にしたことはあるはずだ
でもそれが私の嫌いな「ブツブツ」と一度結びついてしまったら
来年以降、花さえも素直にきれいと
思えなくなってしまうかもしれなかった
――花には罪は無い。罪深いのは、この心
理由も無く異形を恐れ、それゆえに生き延びた原罪。

それに、だからといってその蓮を池から全部取り払うよう
教授に頼む気にもなれなかった。
――汚れきった泥の中から、清らかな花を咲かす蓮
それはここを訪れ、この庭を目にする患者たちに
何も言わずとも、雄弁に語りかけてくるに違いない
まだ美しいものは、希望はあり続けている
この世界に、そしてあなたの中にもと。

「いつもの年は、こうなる前にお手伝いさんたちが
蓮の実を取って、種を繰り出して乾かすんじゃが……
漢方薬の材料にもなるし、中国では食材にもするそうじゃ
あっちは医薬同源じゃからのぅ」
「来年はご一緒してもいいですか?」

と言うと、この小柄な偉大な老人は
少々驚いた表情で、私の顔を見上げた。

「それでも多少はグロテスクかもしれんぞ」
「かまいませんわ。それで美味しいものにありつけるなら。
それに、作業しているうちに見慣れてくるかもしれませんし」
「ふむ、それもお前さんにはいい薬になるかもしれんの」

そして私は池へと視線を移した。
また来年の夏、清らかで美しい花が
水面を埋め尽くすのを思い描きながら。

ブツブツした穴が苦手...「トライポフォビア」の原因とは | ライフハッカー[日本版]