30 years after, She is....

ナースステーションでのミーティングで
看護師長が口を開くことはほとんどない。
いつもは「それじゃ皆さん、今日も安全に気を付けて」と
毎日変わることのないお題目の後に解散となる。
ただ、今日は違った。

「じゃあ最後に、最近気になった点をちょっと」

しっかり者の主任が今日の議事をまとめた後
そこから一歩引いたところで、文字どおり
「後見役」といった感じでやりとりを見守っていた
師長が今日は口を開いたのだ。
ざわつきにこそ発展しなかったが
ナースたちの間にいつもと違う空気が漂った。

「看護記録をこちらでも目を通させて
もらっているのですが――」

風貌としては、どちらかといえばおっとりとした
印象を与えるタイプではある。
きっと昔は「美人ナース」と呼ばれていたんだろうなと
若い看護師たちの間でもそんなひそひそ話が
飛び交うこともあるし、病棟勤務という激務を
長年続けておられたせいか、齢の割にはすらりとしている。
でも全体の雰囲気としては、いかにも「白衣の天使」といった
温和で、でも芯のしっかりした、そんな感じの人だ
岩井師長は。

「もう少し丁寧な字で書いてもらえないでしょうか。
例えば、ここ――」

と、なるべく他の所は見えないように手で隠しながら
投薬記録の箇所を指し示した。

「これだと1か7か判りづらいですよね。
記録は引き継ぎの参考にもなりますので
皆さん忙しいのは判りますが、落ち着いて
きれいな字で書くようにしてください」
「でも――ふつうその状態でその薬だったら
1か7か、常識で考えればわかりますよね?」

そう反論したのは、私の隣の同期だった。
頬を膨らませ気味で声を上げる姿は
どうやら彼女がその記録を書いた張本人のようだ。

「ええ、確かにこれで70ってのはありえない数字です
常識的に考えればね。それが本当なら医療事故ものです」

師長の言葉に、同期の横顔がややドヤ顔になる。

「でも、それを70だと思い込んで真に受ける
ドジな看護師もいないとは限りません。
薬の名前でも間違えやすいものはありますので
看護記録、引き継ぎは特に正確に
判らないことがあれば必ず確認してください。
以上です」

それじゃ皆さん、今日も安全に気を付けてと
いつもの言葉を付け加えて会は解散になったが
同期は機嫌が収まらないようだ。
私たちはその後は休憩なので、控室で
彼女の愚痴に付き合う覚悟を固めていると、

「まぁ、あんまり気にしない方がいいわよ
師長も昔はいろいろやらかしてたっていう話だから」

と、見かねた先輩ナースが声をかけてくれた。

「やらかしてた、って……?」
「でもこれはわたしも入ってくる前で
外科の狭間先生から聞いただけの話なんだけど」
「狭間先生が?」

彼はベテランの外科医でこの病院きっての腕利きと言われているが
群れない一匹狼でもあるので、今も年相応の出世はしていない。
でもその分、現場で今もバリバリと働いているから
結果的にうちの病院の評判を支えているわけでもあるが。

「ミスというミス、今でいう『ヒヤリハット』は
一とおり経験したんじゃないかって。それでも
患者さんを死なせるようなことだけは無かったそうけど」

私たちは思わず顔を見合わせた。

「でも――だからこそいつ、どこでどういう間違いが
起きるかっていうのには人一倍敏感になったんじゃないかしら。
あなたたちだって、一度こっぴどくミスしたところは
トラウマみたいになって二度と間違えないようにって思うでしょ?」
「ええ、まぁ――」

意外だった、そんな人に叱られたということだけではなくて。

「だからこそ、今の師長があるのよ」

現在、ここの病棟では重大看護事故ゼロ記録を絶賛更新中
その功績から、師長も病院の安全対策委員会のメンバーに
名を連ねているというのだから。

「にしても、狭間先生も随分口が悪いわよねぇ」

資料を取りに来た別の先輩が、ファイル棚の高いところに
思いきり手を伸ばしながら口を挟んできた。

「自分の奥さんをそんなに悪しざまに言うなんて」
「「奥さんっっ!?」」

それが、今日一番の驚きだった。

「まぁ、ツンデレだから狭間先生」

と、さっきの先輩がにこやかに返すと

「だね」

と、もう一人の方も苦笑いを浮かべながら
分厚いファイルを脇に抱えて部屋を後にする。

「師長ー、委員会の時間じゃないですかー?」

ナースステーションの方でそんな声が聞こえたから
興味を惹かれて二人でそっちを覗き込む。

「あ、もうこんな時間!」

師長は慌ててデスクから立ち上がると
資料を持ってばたばたと駆け出した。
その後ろ姿を視線で追いながら廊下に出ると、

「あー、遅刻ちこくー」

と叫びながら廊下をばたばたと走る彼女の横を
すれ違ったのは、何と件の狭間先生で

「こら、廊下は走るな。ナースに示しがつかんだろう」
「でも――」
「だいたい、他の委員ならともかくお前だったら
遅れて来ても誰も文句は言わんと思うがな」
「あ、そうか」
「それに、会議室はあっちだぞ」

そう反対の方向を指差した。

「あーっ!」

と絶叫して再び駈け出そうとするが、

「あ、走っちゃいけない走っちゃいけない」

そう自分に言い聞かせるように呟いて
速足で廊下を進んでいこうとするものの、

「きゃっ」

角から突然、車いすの患者さんが飛び出してきたり。

「ドジは死ななきゃ治らない、か……」

そうご主人は顔をしかめるけれども、それでもこれが
我が病院の誇る事故防止のプロフェッショナル
岩井(本姓・狭間)善美師長の素顔だったりする。

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