半径5メートルの平穏

「ただいまぁ」
「おぉ、おかえり」

帰ってきても状況は変わっていなかった。
それもそうだ、家を空けていたのは
ほんの小一時間ほどなのだから。

何てことはない日曜の昼下がり
普段と違うのはパパがこの時間に
家にいることぐらいだろうか。
相変わらずリビングで二人仲良く
ぼんやりテレビでも見ていたようだけど
ただ一つ、いつもと違うのは
「おかえり」がママから返ってこなかったこと。

ここしばらくの突然の冷え込みで
体調を崩してしまったようだ。
あたしが代わりに伝言板を見に行く前も
ときどきひどく咳き込んで、おかげで喉はガラガラ
囁き程度にしか声が出なくなってしまっていた
あの、いつも明るくて話し好きなママが。

「あ、寝てんの?」
「ああ、ようやくな」

ソファに横になってると思っていたら
穏やかな寝息を立てていた。

「昨夜もずっとゲホゲホいってたもんねぇ」
「悪ぃな、眠れなかったか」
「ううん、パパが謝ることじゃないよ」

確かに夜中、上の階から長いこと
ママの咳が聞こえていた。おかげであたしも
何だか咳が止まらないときのように
腹筋と背筋が軋んだ心地さえする、今も。

「かずえちゃんが教授のとこのカリン酒を分けてくれたから
それを飲ませて、昨夜は少し落ち着いたみたいだけどな」

それでもやはり寝不足だったのは否めなくて
ようやく今になってゆっくり眠れているようだ。
さっきから咳で安眠を妨げられている様子もない。
その穏やかな寝顔に向ける眼差しは
何だかんだいって良い夫婦だなぁと娘ながら思う。
けどその背後、ママを起こさないように音量が絞られた
テレビに映し出されているのは、緊急生中継と銘打たれた
立てこもり現場の映像。そしてそれは歌舞伎町近辺
このアパートからもさほど離れていない所だった。

おかげでここから駅までの道すがら
あちこちに規制線が張られて
緊迫した空気が通りにも漂っていた。

同じ映像がCat'sでも流れていた。

「ほんと、最近物騒よね」

と店のママは洗い物をしながら世情を嘆いていた。

「ここのところ立てこもりとか多いし
海外じゃテロでしょ? 嫌になっちゃうわ」
「その二つを一緒にするな。立てこもりといっても
どうせ今回も個人的な恨みが原因だろう」

そうマスターは、美樹さんがすすいだカップを
受け取ると、布巾で水気を拭っては並べていく。

「そうだけど、そういう世間を恨んでる若者が
海外じゃテロに惹きつけられていくのよ。
日本だって他人事じゃないわよ」

美樹さんが声を荒らげたときから
事態はさほど変わっていなかった。
膠着状態、SITが突入するのが先か
それとも犯人が折れるのが先か。

「ひかり、美樹ちゃんから預かってきたんだろ?」

ああ、そうそう。そのためにCat'sに寄ってきたんだ
あたしだってママが心配だから直帰したかったところだけど。

「はい、これ」

と手渡した中身は、一見するとただの草を乾かして
刻んだだけのようなもの。だけど

「えーと、タイムとアニスとリコリスが入ってて
咳を鎮めて痰を取る効果があるんだって。それと――」
「こういうときは水分摂った方がいいっていうもんな
ふやけて痰が緩むってかずえちゃん言ってたし。
でもコーヒーとかだと利尿作用があるからなぁ」

そう言いながら美樹さん特製ブレンドのハーブティーを
あたしへと突き返す。

「淹れてこいって?」
「お前以外に誰がいるんだよ」

お前がいるだろ!と声を大にして言いたいところだったが
パパはパパで、ママの傍についているという
誰にも譲れない、譲る気のない大切な役目があるのだ。

「まぁ、熱が出てない分まだマシだよな
要は喋れないってだけだから」
「その喋れないのが苦痛だろうけどねぇ、ママは」

見ればテーブルの上に灰皿には吸い殻一本なく
それどころか微妙に薄ーく埃が積もったりしている。
――仕方がないと、お湯を沸かしに立ち上がろうとしたとき
テレビ画面に動きがあった。SITが突入したのだ。
スタングレネードだろうか、閉ざされた扉の隙間から
閃光が目を刺す。そして耳をつんざく轟音――
中継カメラのマイクはそこまでの音量は拾っていないだろうが
「圧」のようなものがこっちまで伝わってくるのは
自分も何度かそういう現場に居合わせたことがあるからだろうか。
それは音量を極力絞っていても体の芯まで響いてくる
キッチンへ向かう足を止めてしまうほどに。

にもかかわらずパパは、テレビの方へと振り向きもせず
ここしばらく酷使したであろうママの背筋を
慈しむような表情を浮かべながらゆっくりと撫ぜていた。
――気づいていないはずがない、あのシティーハンターが
それでも、ようやく訪れたこの安息こそが
彼にとっての世界の総てなのだ。

パパにとっては、新大久保が壊滅しようと
代々木が火の海と化そうとも
このアパートさえ幸福ならば
それでいいのかもしれない。
そんなスタンスを「意識が低い」と
嗤う奴らもいるだろう。だが
「大きな物語」に翻弄され、裏切られ
依って立つものさえ失った末の達観に
後ろ指を差す資格のある者は
いったいどれだけいるというのだ。
その代わり、この小さな平穏が脅かされるときには
きっと彼は世界中を敵に回しても立ちあがるはずだ。

あたしもまた、その平穏に微力なりとも貢献しようと
茶葉を持ってキッチンへと向かった。あたし自身もまた
シティーハンターにとっての「守るべき平穏」に
含まれていることを祈りながら。

http://www.shimotsuke.co.jp/news/tochigi/top/news/20161023/2487718