細腕&太腕繁盛記 vol. 4 酒種パン

たまたま(寝汚い俺には)珍しく
開店直後の店に顔を出したからだろう
ここにはずいぶん入り浸っているが
こういう光景を見るのはこれが初めてだった。

「ちわ〜っす」

とプラスティックの大きなトレイ
――こういうところより、スーパーの
バックヤードの方が似合いそうなもの――を
抱えて、背中でドアを開けて入ってきたのは
野郎だったから俺は特に一瞥もしなかった。
そいつは俺たちの背後を通り抜けると
天板の上にそのトレイをどんと置き
その中身の半分ほどを次々と
カウンターの奥の美樹に手渡していた。

それは、透明なビニール袋入りの
まだ切られていない食パン。
スーパーで売られているもののように
その袋にごてごてと商品名が書かれてはいなかった。

「すいません、遅くなりまして」
「いいのよ、あそこの通りで工事やってるでしょ」
「そうなんすよ」

その食パンを、他の店にも同じように配達しているのだろう
トレイに半分ほど残して青年は踵を返す。
――今まで気づかなかったが、確かに
喫茶店にパンは付きものかもしれない。
Cat'sだって、トーストやサンドイッチ
そういやピザトーストもメニューにあったな
コーヒー豆ほどではないが、毎日(客が入れば)
それなりの枚数が出されていることだろう。

コーヒーカップを手にしたまま
香が振り返るように視線を
そのパン屋の配達の青年に向けるのは
そいつが香好みのハンサムだからというわけでなく

「――酒種パンだ」

彼の持つトレイに、店名以上に大書きされた
その文字を香はぼんやりと読み上げた。

「あら、香さん知ってるの?」

さっそく1斤を袋から取り出して
パン切り包丁でスライスし始めた美樹が
あいつに声をかけたものだから
いきなり現実に引き戻されたように
香は慌ててカウンターへと向き直る。
あやうくコーヒーがカップの縁を
越えるんじゃないかという勢いで。

「うん、学校の近所だったから
よく帰り道に寄ってたんだよね。
でも店の名前までは覚えてなくてさ」

だって、店の前に何本も「酒種パン」って書いてある
のぼりが立ってて、そっちの方が
看板より目立ってたから、と香が言う。

「そこでよく手作りハンバーガー買ってたなぁ」
「買い食いは良くないぞ」

と割り込んで茶々を入れると

「だってしょうがないじゃん、あの頃は
育ち盛りの食べ盛りだったんだもん」
と噛みつく。

「香ちゃんは今でも食べ盛りだもんなぁ
育つのは横にだけどw」
「――あら、そうだったの?」

だが美樹は、香のそんな牧歌的な想い出が
少々意外なようだった。

「えっ?」
「そのお店は、ここを開くときにお世話になった人に
教えてもらったんだけど、都内でも有名な
レストランやホテルにパンを卸してるんですって」
「え、そんな高級な店だったの!?」

今度は香が驚きの声を上げる。
まぁ当然、節約の権化のような相棒が
まだ学生の頃とはいえ通っていた店だから
決して高いものが売っていたわけではないのだろうが。

「パンって喫茶店でよく出るでしょ?
だから、できれば良いものを使った方がいいと思って
うちもそこにお願いしてるのよ」

せっかくお金を出して食べるものなんだから
自分ちで食べるのと同じような
工場で大量生産されたのじゃがっかりでしょ?
という美人ママの考えはもっともだ。

「そういえば最近、スーパーのパンばっかだなぁ」

そう香は苦笑いを浮かべる。

「じゃあ、だったら食べてかない?
トースト一枚くらいだったらサービスするわよ」
「えっ、いいの? やったぁ
久しぶりだなぁ、酒種パン♪」

と、隣で小躍りせんばかりの相棒に
俺の中で、口に含んだコーヒー以上に
苦々しいものが込み上げてくるのが判った。
それは、俺の知らない――帰り道に
『酒種パン』で買い食いに興じるような
無邪気だった頃の香への嫉妬か。

「ね、撩も食べるよね」

皿にのったトーストは、それも織り込み済みかのように
一枚をさらに斜めに半分に切ってあった。
すでにパン特有の甘い匂いが鼻腔をくすぐる。
その上で、トーストされた熱でバター
――我が家のようなマーガリンではない――が
すでにじんわりと融け始めていた。

「あっ、やっぱりスーパーのと違う!」

香の表情はバター同様、驚きの後に
さも至福と言わんばかりにとろける。
ここで口に入れなければ、この場の空気を悪くするだけだ
――確かにマスプロ食パンとは違う
小麦本来の甘みに、酒種酵母の味なのか
どこか甘酒に似た味わいも感じる――ものの
あいつが言うほど旨いとは思えなかったのは
香にとってこれは、ただ「美味しい」以上に
「懐かしい味」なのかもしれない――

隣でむしゃむしゃとトーストをぱくつく相棒が
どこか遠く、言うなれば「向こう側」にいるように感じられた。

「ね、美味しいでしょ?」

そう屈託のない表情で笑いかける
きっと制服姿で手作りハンバーガーに
かぶりついていた頃と同じように
――その頃の想い出に俺が加わることは
タイムマシンが無い以上、不可能だ。
だが今、香の笑顔に笑顔でうなずくことができたなら――
今からでも「向こう側」に、香のいる方に渡ることができる
“酒種パン”を旨いと思える側に。

「――ああ」

ぎごちない笑顔になっていなかっただろうか
けれども、

「でしょっ!」

とあいつは満面の笑みを炸裂させた。
――嬉しいから笑うんじゃない
笑うから嬉しくなるんだ。
半分は口から出まかせでも、そう言うと
何だか本当にそう思えてくる。
案外、素直に旨いと言えなかったのは
単なる天邪鬼のせいだったのかもしれない。

「じゃあ今度一緒に行こう!」
「今度って、遠くちゃ行かねぇぞ」
「大丈夫! うちからもそんなに遠くない、と思う
ただちょっと判りづらいところにあるけど……」
「ま、そこまで言うんだったら付き合ってやるかぁ」

ってのは「喜んでお供します」って意味だって
判ってるんだろうな、長い付き合いなんだから。
そして、お前の好きだった手作りハンバーガーを一緒に食おう
これからも何度も。そして
「え、“酒種パン”? 旨いよなぁw」
って、お前と同じ側に立てるように。