名を捨て実を取る

一人暮らしで不便なことといったら
数え上げればキリが無いが
一番困るのは体調を崩したときだろう。
泣こうがわめこうが家にいるのは自分一人
己の看病は己でしなければならない。
ぬるまったアイスノンや汗をかいたパジャマを
取り替えるくらいならまだ何とかなるけれども
その中でも厄介なのは食事の支度
だるい身体を引きずるようにして
台所に立たねばならないというのは
考えただけでもぞっとする。
そういうときは食欲が湧かなったりするが
それに甘えて何も食べなかったりすれば
栄養も無しに治る病気も治らないというもの。

幸い、寝込んでいてもおなかが空くというのは
まだ身体に余力があるということだろう。
でもそれは、胃の中に何か入れなければ
いつまで経ってもこの空腹感に苛まれるということ。
何とかこの腹の虫を黙らせねばと
発熱のせいか全身が重苦しい中
文字どおり這う這うの体でキッチンへと向かう。
――病人食といえばまずはお粥だろうけど
この状態で米を研ぐところからは絶対に無理だ。
何か消化に良さそうなもの……といったら
確か、お中元の残りだとかで実家から押しつけられた
素麺があったはずだから、それを茹でて
温かいめんつゆと食べようか。つゆだって
出来合いのものをお湯で割ればいいだけのこと――だけど
ここのところしばらく使っていない台所
果たして今のこの体調でそううまくいくだろうか?

――やけにその台所が遠い
こういうときは実家が恋しくなる。
一時の寮生活を除けば、この探偵事務所を開くまで
ずっと住所は両親と妹たちと一緒だったのだ
といっても10代の頃からあまり居つかなかった家だったが。
それに、家にいた頃だって今のように寝込んで
母に看病してもらった記憶もあまりない。
だがそれも、ちゃんとまともなものを食べさせてもらって
その結果、風邪一つひかなかった
ということだったのかもしれない。

ようやく辿り着いたとき、そこにはすでに先客がいたようだ。
仕事柄、人の恨みを買うことは多々ある。
だがなぜキッチンなのかと思ったが
考えてみればそこには大抵、鋭利な刃物が一つはある。
普通の家で武器庫に一番近い場所でもあるのだから
賊が立ち入ってもおかしくはない。
とはいえこちらは丸腰、しかもこの体調だ
思ったとおりに身体を動かせるか不安はあったが
そっとドアを開けると、先客は幸いこちらに背中を向けていた。
そのほぼ真ん中の腰の辺りには可愛らしいリボン結び
そこからそびえる屈強な背中の向こうには
美味しそうな湯気が立ち上っていた。

「お、匂いに誘われたか?」
「あいにく鼻も詰まってるの」

ガス台に向かって立ったまま振り向いたのは
紛れもなくお隣さんで――熱がひどくて
幻覚を見たのかと一瞬思った、自分に都合のいいような。

「なんだ、そりゃ残念。せっかくの旨いもんも
匂いが嗅げなきゃ味が半減っていうからな」

と言うとコンロのスイッチを捻る。そして

「大人しく寝てりゃあベッドまで運んでやったのに」

などと歯の浮くようなことを言いながら
トレーをテーブルの上に置いた。
そこには見た目にも美味しそうな卵入りのお粥
――返すがえすも鼻詰まりが恨めしい
しかも色味も兼ねて、刻んだ万能ねぎが散らしてあった。
ねぎは風邪にも良いっていうし……
確かに撩は、見た目以上に細かい気配りができる男だ
でもこういった心遣いは、彼よりもむしろ――

「麗香ほど腕利きの探偵だったら
もうとっくに勘づいてるとは思うが――」

わたしをソファに座らせると、その斜の位置に
腰を下ろした撩がそう切り出した。

「香さんでしょ」
「ご明察。あいつが行けっていうもんだからさ」

風邪をひいたのは昨日今日のことではない
ここのところ、ずっとズルズルいっていたものだから
隣に住んでいればそのくらい気がついていただろう。
そして、自分が看病を買って出るよりも
パートナーに任せた方が、こっちとしても
有難いだろうということまでお見通しで。

撩にとって、わたしはただの隣に住んでいる友人に過ぎない
そのことに焦り、もがき、何とかそこから抜け出そうと
足掻いたときもあった。でも現実は――
今、撩は風邪で寝込んでいるわたしのために
こうして食事を作ってくれに来ている。
その事実の前に「友達」も「恋人」も
関係ないんじゃないだろうか――

「ねぇ撩」
「ん?」
「ここから先は、熱にうなされての
うわ言だと思って聞いてくれない?」

と言われたものだから、撩はソファの上で身構えた。

「お、おぉ」
「わたしがもし死にそうになったら、そのときは
撩が看取ってくれないかなぁ……なんてね」

すると、彼の表情がにわかに曇る。

「なぁ麗香、それ本気で言ってるのかよ」
「だからうわ言だって。もう忘れて――」
「俺がそんなに長生きできるとでも?」

そうだ、この男の生命は羽毛よりも軽い
愛する人を得てもなお、それは変わらないのだろう。

「それにお前、殺されても死ななさそうだしな」

そうけらけらと撩は笑うが、それは否定できなかった。
姉妹たちを見ても、案外図太く長生きしそうだと
つくづく思う。それはきっとわたしもだろう。

「んなこと言ってるようじゃ
まだ熱は下がってないか」

と彼は腰を浮かすと、わたしの額に大きく
意外と柔らかな右手を置いた。そして左手を
自分の額に置き、それをぐっと近づけるから
互いの顔が至近距離になる
――こんなんじゃ余計に熱が上がっちゃうじゃない///

「――後でかずえちゃん呼んでおくから」

息が止まりそうな一瞬の後、また元の距離へと戻る。
空になった器をトレーごと持ち上げると
撩はその広い背中をこちら側に向けた。
――あなたの最期のときは、二人きりにしてあげる
わたしはただの友達だから。でも、忘れないで
わたしと同じ望みを抱いている女たちは
この世の中にごまんといるだろうことを。
きっとあなたは優しいから、能うかぎり
それを叶えようとするんでしょうけど。