欄干の無い橋

慣れたところへなら自らハンドルを握るが
知らない道ならそうもいかない。
信頼できるナビがいないなら尚更のこと。
そうなると、自ずとバスや電車を使わざるを得なくなる。

美樹には「近くじゃないなら白杖を
持ち歩いた方がいいんじゃないの」と言われるが
あんなもの、俺には必要ない。
これでも昔は闇夜のジャングルだって
行軍することができたのだ
だいたいの気配で立ち塞がる障害物くらい
察知することができる。
プラットホームの柱ぐらい――

「そこ、幅が狭くなってますよ」

柱を迂回するため横に一歩を踏み出そうとしたとき
突然、その向こうから声をかけられた。

「あら、驚かせてしまったかしら」

それもそうだ、目の不自由な人間にとって
不意に声をかけられるというのは
突然目の前に立ち塞がれることにも近い。
とはいえ、じゃあ注意を引きたいときに
どうすればいいのだと言われてしまうので
目の見える人間以上に突然の出来事に
普段から身構えてはいるつもりなのだが。

「この駅は古いから、ホームも狭いのよ。
だから柱が立ってるところなんて
あなたみたいな大きい人だと
横歩きしなきゃ通れないんじゃないかしら」

声の主はどうやら老婦人のようだ
といっても見た目以上に「声の年齢」には
個人差が大きいのだが。このくらいの齢になると
女というのはとかく、よく言えば親切
悪く言ってしまえばお節介になるものらしい。
俺たちの周りの女たちは昔からそうだったが。
そして、その婦人の言葉の端々には
今どきはめっきり聞かなくなった
品のよさが現れていた――とうの昔に死んだ母親のような。

忠告に従って、探りに一歩、足を踏み出す
――普段の歩幅だったら、踏み外すということはなくても
足の半分ほどはホームからはみ出していただろう
迂闊にもバランスを崩せば、そこから線路へ
転がり落ちてしまうほどには。

「ようこそ、こちら側へ。でもよかったわ
杖は持ってなかったけど、そのサングラスでしょう
もしかしたらと思って」

そのとき、彼女の声がやけに低いところから
聞こえてきていることに気がついた。
まるで子供の背丈のような――
そういう者も確かにいるが、微かにきしむ車輪の音で
おそらく車いすに乗っているのだと判った。
だがそれを押す人間の気配は近くに感じられなかった。
ということは、足が不自由になって長いのかもしれない。

ふと、美樹が店の改装を言い出したことが脳裏に浮かんだ。
入り口の前の階段にスロープを掛けたいのだというが
それにいったいいくらかかるというのだ。

「目の見えない方にとっては駅のホームって
『欄干の無い橋』みたいなものでしょう?
最近じゃホームドアもあちこちに付いたけど
ここみたいな狭いところだとそうもいかないようだし
かといって駅員さんがいてくれれば、ねぇ……」

確かに、もともとあまり電車は使わないのだが
それでも最近は駅員らしい気配に行き当たらない。

「近頃じゃあちこちにカメラがついてて
それで部屋から見張ってるから
ホームにわざわざ人をやる必要はないのかもしれないけど」

監視カメラにホームドア、そうやって機械が
人間の代わりをしてくれるおかげで
障害があっても、俺のように他人の手を
煩わせたくない人間としては
こうして気兼ねなく外を歩くことができる。
だが、障害者が障害の無い人間と同じように外出するためには
このようにいたるところでバリアフリーとやらの環境を
整えなければならないのだろうか――。

「人は石垣、人は城」と古の武将は言った。
なら、人が欄干になるくらい容易いことではないのか。
目の不自由な人間が立ち往生しているようなら
手を引いて導いてやればいい。
車いすが段差の前で立ち止まっているなら
手を貸してそれを乗り越えるのを
助けてやればいいだけのこと。
それがスロープなどより
一番手っ取り早いバリアフリーだ。

《――間もなく電車が参ります
黄色い線の内側に下がってお待ちください》

とのアナウンスがホームに響く。
こんなことまで今では機械に任せきりだ。

「ところでどこまで行かれるんです?」
「あ、ああ。赤坂見附まで」
「じゃあよかった。申し訳ないんだけど……
ここの駅、電車とホームの間に段差があるのよ
だから――」
「ああ、もちろん」

http://www.saitama-np.co.jp/news/2017/01/15/01.html