軽い左手

さっきからやけに左手にばかり目が行ってしまう。
いつもより良い腕時計の文字盤、は素通りして
その先、薬指には銀色の指輪。ただ、これは
いつも身につけているものではなかった

「香さん、どうしましたか?」
「いえ、なんでもないです」
「そうですか……あ、でも変ですよね」

いつものアパートとは違う
都会的な、趣味の良い部屋。
両手にそれぞれコーヒーの入ったマグカップを持つ
――あいつは、滅多にそんなことはしてくれない――
男性も、身につけているものはよく見れば
どれも質も品も良いものだと判るだろう。

「何がですか?」
「僕たち、一応『恋人』ってことになってるんだから
さん付けじゃ不自然かなって」
「でも無理しない方がいいですよ
かえってボロが出たりしますから。
ここは二人だけなんですし」
「いや、だからこういうときから親密なふりをしていれば
人前でもボロが出ないんじゃないのかな」

そう言うと彼はソファに腰を下ろし
テーブルにカップを置く。一つは自分の前
もう一つは向かいの席に座るあたしの前に。
答えに窮して、あたしは再び組んだ手に――
そこに光る指輪に視線を向けた。

男の依頼なんていつも撩は承けたがらないが
冴羽商事倒産の危機なんだからと
無理やりにも引き受けさせた。
内容はいつものボディガード、とはいえ
絶えず依頼人の傍について守るのと同じくらい
その元を断つのも重要だ。
だから片方はフリーで動けなければならないが
どちらがそうした方がいいかは自明だろう。
それゆえ、あたしが彼のガードを務めることになった
表向き、彼の「恋人」として四六時中すぐ傍で。

どうせふりをするなら、疑われないよう
形だけでも完璧にと、指には依頼人と揃いの指輪。
もちろんこれも良いもので
あたしが普段つけているものよりも重いはず。
なのにずっと、やけに左手が軽いのだ。

撩とただの仕事上のパートナーだけではなくなってから
彼から指輪を貰った。それをあたしは普通に
左手の薬指にいつも嵌めている。
(撩は、あの照れ屋のこと
目に見えるところにはしていないけど
それでもいつも持ち歩いているようだ)
その指輪の重みが左手から感じられない。

それはただ金属の物理的な重さだけではなかった。
撩がそれまでどんな男だったか
あたしが一番よく判っている。
誰か一人の女性に執着することは無く
自分の人生、生命にすら執着することもなく
どこかの美人を守って生命を落とすなら本望と。
その撩が、あたしと出逢ったせいで
生き方を180度変えるに至ったのだ
あたし一人を守るために、自らも生き抜くと。
その指輪の重みは、撩の想いそのもの。
それは偽りの指輪には決して宿りえないもの。

こうも左手が覚束ないようだと
仕事にも支障が出やしないかと心配になってくる。
特にローマンは、パイソンと違って
威力の割には銃そのものの重さに欠ける
だからいざというときは自分自身の腕の力で
跳ねるのを抑え込まなければならないけれど
片手だけが軽いとそれも抑えられないんじゃないかと――
でも、そんなんじゃ指輪に、撩に嘲われる。

今でももちろん撩が、あのアパートに置いてきた
指輪のずっしりとした感触が恋しいのだ。
でも依頼を終えて再びそれを薬指に嵌めるまで
あたしは、その指輪に恥じるようなことはできない。
撩があたしを守り抜くと誓ったように
あたしも、それまでは依頼人を守り抜かなければ。

右手を左手の上に重ね、少しだけ力を込める
足りない重みを注入するように。

「じゃああたしも、こうした方がいいかしら」

そしてその両手を、マグカップを持つ
彼の手に重ね合わせた。