【41/hundred】わがなはまだき

恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり
人しれずこそ 思ひそめしか

「あら、今日はまだ来てないわよ」

店に入ってきたわたしを見るなり
カウンターの向こうの女主人はそう言った
誰が来ていないかは省略して。

「ち、違うわよ。わたしはただ
ここにコーヒーを飲みにきただけなんだから」
「あら、そう。じゃあ、いつものでいい?」

と彼女はサイフォンに挽き豆をセッティングする。
確かにこの店に通い始めたのは
ここが撩(と香さん)の行きつけだからだった。
でも今は店そのものの雰囲気に惹かれて
自分自身、すっかり常連になっていた
店主夫妻の結婚式に招待されるほどの。
そこでわたしの数年にわたる片想いは
見事に玉砕したのだけれど。

「でも冴羽さんも大したものよね」

そう美樹さんはコーヒーカップを差し出す。

「え、何が?」
「こういうのを当の麗香さんの前で
言うのもなんだけど……」
「いいわよ、言って。そう口に出されちゃ
最後まで言ってくれないと気持ち悪いじゃない」
「判ったわ。麗香さんがあんなに恋心丸出しにしてるのに
それを見て見ぬふりしてただの友達扱いだなんて
あたしにはできそうにないなって」

――正直、穴があったら入りたいと思った。
カウンターの天板に思いきり突っ伏す
そのままめりめりと地面までめり込んでいきたいくらいに。
美樹さんと海坊主さんの結婚式で
撩と香さんもまた想いを確かめ合ったのだろう。
テロリストに攫われた彼女を取り戻した後の
二人の間には今までにない何かが感じられたから。
そのとき、もう自分はそこに
割り込むことはできないと悟ったのだ。
なのに――だからといって「撩を好き」という気持ちは
変えようが無かった。ただ、その見返りは諦めただけで。

「美樹さん――」
「何?」
「そんなに、見え見え?」

“夫婦探偵”を諦めたからには
「忍ぶ恋」を通そうと思っていたのに。

「ええ、冴羽さんの前では
見えない尻尾ぶんぶん振ってるわよ」

わたしは犬ですか……orz

「もしあたしが彼と同じ立場だったら
『友達でいましょう』ってなっても
それすらできないかなぁ」
「美樹さん、もしかして今
そういうシチュエーションに陥ってるわけ?」

攻守一転、思わずにんまりと笑みが浮かぶ。
その表情にカウンターを挟んでたじろぐ美樹さん。

「いや、『もし仮に』よ。お店のお客さんに
告白なんかされちゃったら、その後
顔を合わせづらいっていうか、『あの人
別のお店の常連にならないかなぁ』って……
客商売失格よね」

状況設定の細かさに、何となく察しがつく。
もちろん、そんな下心も笑顔でさらりと返してこそ
喫茶店のママなのだろうけど
彼女にそれは不似合いなように思えた。

「まぁ、それは場数踏んでるからでしょうねぇ」
「ああ、やっぱりそうかぁ」

一見ふられてばかりのようでも、泣かせた女の方も
数知れず、に違いなかった。ならばわたしの気持ちも
判った上で素気無くあしらうことぐらい容易いことだろう。

「だったら美樹さん、いっそ
海坊主さんに一睨みしてもらえば?」
「ダメっ、それだけは絶対にダメ!」

と躍起になって否定される。

「そんなことにファルコンまで
巻き込むわけにはいかないじゃない」

そう言う表情は恥じらう乙女だが
確かに、あのマスターまで引きずり込んだら
「一睨み」だけで済むかどうか……

「でも撩なんか来るたびちょっかい出してくるじゃない」
「ああ、あれはそういう人なんだって判ってるし
それにあの程度はご挨拶でしょ。
ラテンの男はみんなそうよ」

今度は涼しく切って捨てる。そんな言葉を聞いてると
今でこそこうしてわたしの住む街で普通に
喫茶店を営んでいるものの、かつては
中米育ちで、世界中を文字どおり「転戦」していた
生粋の女コマンドだったことを思い出させられる。

「それより――すごいのは香さんの方なんじゃないかしら」
「え、どうして?」
「わたしがこうして撩のことが今も好きなの見え見えなのに
ちゃんとお隣さんとして付き合ってくれるんだもの。
そうそうできることじゃないわ」

そうなったら大抵、恋人の男性と同じくらい
その彼女も気まずくなってしまって当然だろう
嫉妬の角が見え隠れしてもおかしくないくらい。

「それは逆に、『場数踏んでないから』かもしれないわね
だから余計な勘繰りをする発想が無いのよ、きっと」

さっきのわたしの答えと正反対に、美樹さんは言った。
でもそうなのかもしれない。わたしと齢は大して変わらないのに
香さんは男と女のどろどろした綾も駆け引きも
実感として知らないまま、この齢になっていた。
彼女にとって言葉どおりの言葉、態度どおりの態度が総て
その奥に潜む見えざる本心を邪推しようとはしない。
きっと、見えない尻尾も見えていないのだ。

男女の裏の裏まで知悉する男と
表しか気づかない女
全くの正反対なのに、その振る舞いは似通っていて

「やっぱりお似合いよねぇ、あの二人」

それが偽らざる本音だった。

「そうね、どっちにせよあたしたちみたいな
常人には真似できないもの」

と、美樹さんは苦笑いを浮かべる。
そうだ、彼女の悩みは未だ解決策を見出せずにいるのだ。
こう言ってはなんだが、つくづく自分は幸せものだと
噛みしめながら、いつものカップを口元に運んだ。

恋してる 噂はとっくに配信中
そんなに顔に 出ているのかな