【61/hundred】けふここのへに

いにしへの 奈良の都の 八重桜
けふ九重に にほひぬるかな

こっちにきてからずっと、何で日本人は
たかだか1種類の花の開花にこうも
一喜一憂するのかが理解できなかった。
この国を象徴する花だとはいえ
予想日を立てて、咲いたかどうかを役人が確認し
それを公式に宣言し、わざわざ天気予報の時間に
「桜前線」なんてものを風流に示し出す。
まぁもちろんコンクリだらけの殺風景な街より
そこに花でも咲いていた方が見栄えもするだろう。
だが、わざわざ桜の名所とやらまで足を運んで
花を愛でるというのも、俺にしてみれば
その下で飲み食いする口実としか思えなかった。

「ねぇねぇ、あそこの桜の木なんだけどさぁ」

と香が毎日のように言ってくるのも
いつも適当に聞き流していた。

「ねぇ撩、聞いてる?」

そう夕飯の準備の途中でいきなり振り返られるから
こっちは早めの晩酌のビール缶を思わず握りしめそうになる。

「はいはい、聞いてますって」
「じゃあどこの木?」
「………」

と問われれば緘黙するしかない。

「もぉ、前に言ったでしょ?
公園の角の家の八重桜だって」

この辺は新宿でも外れのエリア
表通りから一歩奥まったところには
狭い戸建ての住宅もひしめく。
その中でも古い一軒の庭にある八重桜の木は
枝をブロック塀の外にまで差し出していて
それが狭い路地を往く近所の人々の目を楽しませていた。
そして香もまた多分に漏れずその一人であった。

「っていったって、まだ桜にゃ早いだろ」

そう、まだ伝言板への行き帰りには
マフラーとコートが手放せなかった頃のこと。

「うん。でもねぇ、枝が桜色してきたんだよ
だからもうそろそろ春かなぁって」
「枝が桜色って、んなわけあるかよ」

まだ芽もつけていない枯れ枝だ
褐色以外の何色でもないはずと
わざわざそれを確かめにいった俺も物好きだろう。
その木はCat'sからの帰り道を
少し寄り道していったところにあった。

「――ああ、確かにな」

もちろん芽も葉も付けていない、ただの枝だけだ。
だが透かして見るように見上げると、その中に
来たる春に咲かせる花が色に溶けて
その枝の中に眠っているように感じたのだ。

そしてそれからは、桜前線が北上するにつれて
芽が出た、その芽が少しずつ膨らんできたと
香は嬉々として報告を欠かさなかった。
それをときどき、俺自身も確認しに行っているとは
一言も口に出さなかったが。

だがこの時期は花冷え、花曇りの言葉もあるように
とかく天候が不安定で、まして八重桜となると
一般的なソメイヨシノより花期は遅い。
なので季節が逆戻りしたような日が続くと
香もまた外の天気同様に表情を曇らせた
裏通りの八重桜を案じるかのように――

「――たまには寄り道して帰るか」

すでに通りのあちこちで桜の絨毯が見られるようになった頃
いつものようにCat'sからの帰り道、最短距離のルートから
香の手を引き、角を一つ曲がる。

「うわぁ……」

と香が感嘆の声を上げた。
殺風景なブロック塀から枝垂れるように咲くのは
豪奢に濃い桜色の花をつけた大輪の八重咲き。
ソメイヨシノが清楚な大和撫子だとすれば
こちらはゴージャスでグラマラスなハリウッドビューティか
どっちもどっちで俺は好みだが
――それがより一層、鮮やかに見えるのは
まだ寒さの残る中、こうして花を咲かせるまで
一日一日見守ってきたのもあるのだろうか。

だからこの国の人間は桜に心奪われるのだ。
それはただ花の美しさだけではなく
そこにその花を心待ちにする思いが重なるから
さらにずっと、咲き誇る桜を愛おしく思えるのかもしれない。

「りょう――知ってたの?」

数日前、あいつが大騒ぎで開花を知らせてきたのだ
それをできるだけ平然と、俺にとって
何の興味が無いように聞き流す振りで受け止めたのだが
そろそろ見頃という予想が見事に当たったようだ。

「まぁな、ほらよ」

と、ジーンズのヒップポケットから
香の手元にぽいと投げる。

「花見には花見酒が付きものだろ?」

いわゆるスキットル、ウィスキーを入れる
携帯用のボトルだ。場所が場所なので嫌かもしれないが
人肌で程よく温まっていることだろう。

さすがにストレートだと香には強すぎたのか
すでに日も暮れかけ肌寒くなっている中
頬がぽぉっと染まる様が、なぜかやけに艶っぽくて
思わず息を呑んだ。

あいつもまさに、八重桜のような艶麗な花を
今まさに開かせようとしているところなのかもしれない。
咲き具合は八分咲き……いや、まだ七分といったところか
というのは俺自身の願望も込みか。
そして、その花が枯れ枝から芽吹き、蕾となり
それが徐々に綻ぼうとしているのを
一番間近で見守ってきたのが他ならぬ俺なのだ。
おそらくその花が満開に咲き誇ったとき
この目に映る香の姿は、きっと
世の男たちが見る以上に艶やかなのだろうか――

「ありがと、りょう。桜、見せてくれて」

桜色に頬を染めながら香は微笑む。
この八重桜と同じように、香という花の見頃を
一日も早くと望みながら、同時に
その日がまだ当分先になることを願う俺がいた。

――道端で 毎日見上げる八重桜
きょう九重に満開宣言