ミモザの日

3月初旬、春まだ遠い風の寒さ
三寒四温のまさに「三寒」真っ只中
この調子じゃ1ヶ月後、本当に桜が咲いているのか
疑いたくなるほど、東京は冬を引きずっていた。
おかげでこっちは猫背をさらに丸めて歩く始末。
だが香はというと、美樹ちゃんと一緒に
『一足先に春を満喫・花めぐりバスツアー』
とやらで南房総だか伊豆だかで
今頃、春の日差しをうららかに浴びていることだろう。
出かける前には
「どーせ鬼の居ぬ間の洗濯って思ってるんでしょうけど
あんまり羽を伸ばしすぎないでね」と
ぐっさり釘を刺されてしまったが
まぁいいさ、あいつだって俺の面倒を見ないで済む分
のんびりせいせいしてるに違いない。

と、ナンパにも何となく張り合いが無いまま
コートの襟を立て、肩をすぼめて家路を急げば
帰りついて早々、冷蔵庫のドアを開けた
――ちっともせいせいしてないじゃねぇか。
こんな日ぐらい家のことは全部忘れちまえばいいのに
おそらく昨夜か朝のうちに準備していったのだろう
帰ってすぐ夕飯にできるよう下拵えができていた。
肉は焼くだけでいいように下味がつけられ
何にするのかは判らないが、副菜用の野菜はカット済み
スープにいたっては、もう温めるだけだ。

「これじゃなんのために送り出してやったんだか」

香の準備の良さに今日だけは呆れかえりたくもなる。
でも、これだけのメニューだったら
あと一品、腕を振るう余地はありそうだ。
どうせあいつは花より団子、色気より食い気の方だから。

野菜室を覗いてみれば……そこには微かに春の気配
キャベツも冬の、寒風に凍える蕾のように
硬く締まった色白のものではなく
南風にほころび、色づき始めていた。
そしてアスパラガス、はヨーロッパなんかじゃ
まさに春を告げる野菜だという
日本でいえばフキノトウみたいなものか。
加えて、まだ買ったばかりであろう
封の開いていない卵1パック。

サラダなんてものは適当でかまわない
生で食べられるものならなおさら。
包丁なんか使わず、食べやすい大きさに
手でちぎってやればいい。もちろんよく洗ってから。
アスパラは好みの歯ごたえまでさっと茹でる
それも面倒ならレンジでチンでも充分だ。
それにしてもまるまると太くて色も濃くて
見るからに旨そうだ。もちろん俺のには劣るが【爆】
それを、キャベツと一緒に口の中に入れても
違和感のない程度の大きさに刻んでやる。
さらに――おお、そろそろいい感じ♪
細かく刻んだベーコンをカリカリに焦がす
やっぱアクセントは肉だよなぁ。
香のやつ、なにこっそりブロックベーコンなんか
買ってきてるんだよ。こういうのは
ぺらっぺらのスライスなんかより
こっちの方が旨いに決まってるんだから。

――っと、
タイマーがけたたましくキッチンに響き渡る。
もう一つのコンロにかけた鍋を火からおろし
中身を水に冷やす。茹で卵の柔肌を傷一つなく
ぷるんと剥き上げるのは俺の特技の一つだが
今回はそれほど気にしなくていい、
どうせフォークで細かく潰してしまうのだから。
それを、さっきまでの適当に作ったごたまぜサラダの上に
ふんわりとかけてやれば――今日この日にぴったりの
まるで春の陽だまりそのもののミモザの花。

3月8日は国際女性デー、なんていうと
いかにもウーマンリブな響きもあるが
イタリアなんかじゃ男たちが女性に
日頃の感謝をこめてミモザの花を贈るという
母親、妻、恋人、友人や職場の同僚にも。

感謝の気持ちを伝える日は一年のうち他にもある
親なら父の日・母の日、カミさんなら結婚記念日だろうか
だが――相棒の日、なんてのは聞いたことが無い。

俺にとって香は『パートナー』、それ以上でも以下でもない
もちろん惚れていないと言えば嘘にはなるが。
それは「恋人」や「妻」といった
甘やかささえ漂う肩書には見劣りするかもしれない
でも考えてみろよ、何でこのNo. 1スイーパーが
素人に毛の生えた(といっても今やすっかり剛毛だが)
程度のお前を今も相棒にし続けているか。
それは――お前を誰よりも信じているから
誰よりも大切で、誰より傍にいてほしいから
たとえ、俺たちに相応しい言葉が『パートナー』しかなくても。

そんな俺の想いを知ってか知らずか
誰よりも俺を信じ、誰より俺の傍にいてくれる香に
いくら感謝してもし足りないくらいなのに
それを伝える機会が365日のうち一日も無いなんて!
――だから、木を隠すなら森の中
あまねく女たちへの感謝の中に
世界でたった一人のお前への感謝を込めて。

それならカモフラージュついでに、花屋に頼んで
店にあるだけのミモザの花を
行きつけの店という店に届けさせようか。
俺が花束を担いで回ってもいいのだけれど
このとおり、あいつの帰りを待ってなきゃならないから
テーブル一面に並んだ料理と、その真ん中で
鮮やかに咲いた満開のミモザサラダと一緒に。