LOVE ADDICTION

一仕事片づけて、次の依頼をあくせく探す必要の無い昼下がり
いつものようにリビングのソファに横になりながら
ぼんやりと紫煙をくゆらす。
持ち手を除いてたっぷりと灰にすると
その「吸い殻」と化した煙草を灰皿に押しつける。
そして次の一本をと、ポケットに手をやるが
そこにあったのはぺしゃんこになった空のパッケージのみ。
仕方がない、とストックを置いてある引き出しへと
重い腰を上げようとすると、

「キリのいいとこでやめとけばぁ?」

と娘に立ち塞がれた。

「リビング禁煙とかうるさいことは言わないけど
これはいくらなんでも吸い過ぎなんじゃないの?」

そう言いながら、あてつけのように
消臭スプレー(煙草用)を
煙をたっぷりと吸い込んだソファに
ばしゅばしゅと吹きかけていく。
ガラステーブルの上には、灰皿から
一箱分の吸い殻の噴煙が上がっていた。

「だいたい、なんで吸うのかなぁ
こんな百害あって一利も無いようなもの。
ほんっと、わけわかんない」
「そりゃお前が吸ったことがないからだよ。
もしお前がこいつを吸って吸って吸いまくって
ニコチン中毒になってみれば判るさ、
たとえ身体には毒でしかなくても
これを吸わずにはいられないってことが」

釈然としない、と太々と書かれているかのような顔で
ひかりは俺を睨みつけていた。そのとき俺は思い出した
数日前の台詞、それがどんなに的外れな言葉だったかを。

――それは君が本当の恋を知らないからさ。
 もし君が、心の底から誰かを好きになったなら判るさ
 本当の淋しさってやつが。

最近片づけたばかりの仕事は
とあるご令嬢のストーカー退治だった。
といっても、実際は親バカな父親が
勝手に過剰反応して俺たちに依頼してきただけのこと。
週に一度、娘宛てにある男から手紙が届いてくるくらい……
同じ娘を持つ父親として、その気持ちは判らないでもないがな。

そのお嬢様というのが、もう20代も半ばなのだが
家事手伝いの傍ら絵を描いているという箱入り娘
最近の子には珍しくSNSの類はおろか
携帯電話すら持っていない(だから手紙なのだ)
せっかくの美人なのに絵にしか興味がないという
非常にもったいないもっこりちゃんだった。
おかげで、ボディーガードを依頼されたものの何もすることも無いので
彼女の絵のモデルにさんざん付き合わされてしまったのだが。

差出人の男の素性も判っていた。
彼女の美大時代の同級生で
一時期は友人として、親しく付き合っていたとのこと。
その彼は芸術家志望らしいナイーブさはあるものの
決して危険な男というわけではなかった。
なので、俺たちとしてももともとガードする必要は無い
だからといって、何も起こりそうもないのに
いつまでも彼女の傍に居続けるわけにもいかないので
一度、はっきりと彼女自身から拒んでもらって
そこで何かあったらその男をとっちめて
それで依頼終了、という腹積もりだった。
でもまさかそいつが、そのお嬢様の行きそうな美術展に
毎日通い詰めて、ずっと彼女を待ち続けていたというのは
確かにストーカーの片鱗はあったのかもしれない。

事態にいったんケリをつけるために
近くの喫茶店で膝詰の直談判と相成った。
男は尋ねた、何で僕から離れて行ってしまったんだと。
彼女は答えた。

「だって、あなたはわたしを外の世界に
連れ出そうとしたじゃないですか」

彼女はただ、彼と一緒に絵を描いたり
好きな絵について語り合ったり、それだけでよかったのだ。
なのに彼は、絵描きである前に健康な一青年男子だった
こんな魅力的な女性と“デート”がしたいと思っても不思議ではない。
けれども、哀しいことに彼女は
健康な若い女性である以前に、一人の絵描きだった。

「わたしはただ、時間の許す限り
キャンバスに向き合いたい
それ以外、他に何も要らないんです」

話は平行線だった。結局、男は彼女を諦めざるを得なかった
最後に捨て台詞を残して
君の人生は、ずいぶんと淋しい人生だなと。

「――わたしの人生は、淋しい人生でしょうか」

その後ろ姿を眺めながら、彼女はそう呟いた。

「なんで彼はあんなことをしたんです?
わたしにはさっぱり……」
「それは君が本当の恋を知らないからさ。
もし君が、心の底から誰かを好きになったなら判るさ
彼のしたことの理由も、本当の淋しさってやつも」

そのときの彼女の表情の意味も、今なら判る。
判らなかったのだ、その言葉の意味が
煙草を吸ったことのない人間にとって
ニコチン中毒者が、たとえ身体には毒であっても
煙草の煙を求めずにはいられないのが
理解できないように。

たとえ誰かを好きになることがなくても
彼女はいいとこのお嬢様だ、いずれ父親が
彼女と自分たち家族に相応しい男を探してくるはずだ。
その男を彼女は拒むことはないだろう
絵を描き続けることさえ許してくれるのならば。
愛される喜びも、心からの愛おしさも感じることはなく
でもただキャンバスに思う存分向き合えさえすれば
彼女はそれで充分、心から幸福なのだろう。
その幸福について、外野の俺たちがとやかく言うことではない。

「――なぁ、ひかり」
「なに」

だからその噴射口を俺に突きつけるな
この汚れた肺も一緒に清潔除菌するつもりか。

「おまぁ、好きなやつとかいるのか?」

弱冠中学生の娘は、目を白黒させながら
この場に最も相応しい答えを必死で探しているようだった。
それこそ「好き」の定義すらフル回転で考えながら。

「恋」の語源が一説には「乞ひ」
――自分の手の中に無いものを
必死に追い求めることだというなら
今のひかりにはそれは無縁な言葉だろう。
あいつの傍には俺たちがいて
従兄をはじめ腐れ縁の幼馴染みがいて
他に何かを乞う必要は無いのだから。
それは決して淋しい人生などではない
むしろこれ以上ない満ち足りた、幸福な人生だといえる。

俺はというと足りないものばかりの人生だった
だからこそ心から強く激しく乞い、恋い続けた。
今だってそれがすっぽりと手の中に納まった気はしねぇ。
それゆえひかりには、娘には
何かを恋うような人生は送ってほしくなかった。
それはすなわち、今手の中にある何かを
失ってしまうことに他ならないのだから。

スプレーを父親に突きつけながら
未だぽかんとした表情を浮かべ続けている
ひかりの頭に、ぽんと手を置いた。

http://www.huffingtonpost.jp/2017/12/11/renai-banare_a_23304261/