1991.12/ポルボロン、ポルボロン、ポルボロン

紅茶を浸したマドレーヌを一切れ口にするだけで
過去の出来事が鮮やかに脳裏に蘇るなんてのは
小説の中だけの話だと思っていた。

「へぇ、沖縄のお菓子?」
「Yeah、美味しいから食べてみてよ」

そうミックはカウンターに箱を差し出した。
中にはギザギザとした細長い小判型の
きつね色をした焼き菓子の包み。

「あら、旅行? それとも仕事?」
「Not really(そうじゃないんだけどね)、ミキ
カイシャでそっちに取材に行ったのが
オミヤゲにってオフィスに買ってきたんだけど
そこでオレがウマいウマいって言うもんだから
カレがわざわざ取り寄せてきてくれたんだよ」
「へぇ、じゃあずいぶん新しい仕事にも
馴染んできたみたいね」

スイーパーとしての現役復帰が叶わなかったヤツは
かつてさゆりさんも籍を置いていたウィークリーニューズ日本語版の
専属ライターの職を得て、この秋から働き始めていた。
と同時にかずえとの新しい生活を始めていたが
どちらもどうやら順調にいっているようだ。

「ちんすこう、か」
「ファルコンは食べたことあるの?」
「いや、多分無いな」

と言いつつ、Cat'sにいる俺を除く全員
――といっても主夫婦と、数少ない常連だけだが――
が次々とヤツの土産に手を伸ばす。

「あ、でもせっかくミックが頂いたもの
食べちゃっていいのかしら」
「Don't worry、カオリ。家にはもう一箱
オレたち用にとっておいてあるから」

といってもその半分は今頃カズエが
キョウジュのところにオスソワケに行ってるけどね、と
これ見よがしにウィンクを投げかける。
それにもかまわず香は、じゃあ心置きなくとばかりに
一切れを口に含んだ。

「コーヒーに合いそうね」
とカウンターの向こうでこの店の美人ママが頷く。
その横でいかついマスターも無言で同意する。
香はというと、初めての味覚を
その大きな目を真ん丸に見開きながら
口の中で確かめているようだった。
ただ、少なくともそのリアクションからは
決してあいつの好みじゃないというわけではなさそうだ。

「撩も食べてみれば?」

ようやく口の中が空っぽになった香の
第一声がそれだった。

「いいよ、どうせ甘いんだろ」
「そんなでもないわよ。たぶん撩も
大丈夫だと思うけどなぁ」

もちろんそれは言い訳で、本音は
ミックの土産物など食う気になれないというところだ。
だがその言い訳を真に受けた香は、

「食べず嫌いはよくないぞっ」

と、もう一包みを手に取ると、その封を開け
中身を二つに折ると、その小さい方の一欠けを
俺の口へと押し込んだ。

――Polvoron, polvoron, polvoron....

ああ、あのときも今と同じ頃
クリスマス間近だった。といっても
亜熱帯のジャングルには聖夜ならではの
季節感というものは皆無だった。

いくら内戦の真っただ中といっても
戦闘の激しいときもあれば、それとは反対に
平和、とは言えないまでも小康状態の時期もあった。
ちょうどその年のクリスマスがそうだった。

俺たちの野営地の近くの村には
粗末な造りながら教会があり
オヤジはそこの神父とも親しいようだった。
そして、兵士たちも元はといえば敬虔なカトリックで
せっかくの穏やかなクリスマスだからと
彼らと教会に行ったのだ、村人たちのミサを外して。

おそらくまだ声変わりもしていなかった頃だろう
神父は一行の中で一人だけ幼い俺に
一切れの菓子をくれた
ミサの聖餐のように直接口の中に。

「ポルボロン、ポルボロン、ポルボロンと
口の中で溶けてしまう前に3回唱えられれば
願いが叶うといわれているんだ」

そんなことは親父は教えてくれなかった。
だが、ほろほろとした口当たりの素朴な焼き菓子は
3回言い終わる前にもろくも口の中で消えてしまった。

あのとき、何を願おうとしていたんだろうか――
そこまではさすがに思い出せなかった。
だが少年の日に抱いたような「自由」だとか「平和」だとか
高邁な夢は全部もろくも崩れ去った、あの焼き菓子のように。
じゃあ、今の俺の願い事は――

あの日のポルボロンより生地がしっかりしていたのと
香が押し込んだ一欠けが意外と大きかったのもあって
ちんすこうは「ポルボロン」と三つ唱えても
口の中で消えることはなかった。
もっともこいつは、同じように小麦粉と砂糖
そしておそらくはラードを練って焼き上げた菓子には違いないが
あくまで「ちんすこう」であって
「ポルボロン」ではないのだけれど。

「ね、美味しかったでしょ?」

と、香が俺の表情を覗き込む
何でそれくらいのことで、というほどの
満面の微笑みを浮かべながら。
でも、その笑顔にこちらも笑顔で返したくなる
が、男は黙ってポーカーフェイスでぐっと堪える。

――今の俺の願いは、ただ一つだけ
それもどうやら叶いそうな気がした。
世界中の美女ともっこり、というのとは別にw