2000.2/それが あたしだから

ティータイムのお客が去って、一息ついたCat's Eye
今はカウンターにいる香さんとひかりちゃん
その横にちょこんと座っているうちの鴻人だけ。
溜っていた食器洗いも片づいたし
わたしもようやくコーヒーの一杯も飲めそうだ。
何しろ、今日は寒かったからか
暖をとりに来たであろうお客たちで
さっきまでごった返していたのだ。
おかげで息子の保育園のお迎えも、ひかりちゃんのついでにと
香さんにお願いしなければならなかったほど。

その鴻人は、おやつのホットミルクと
好物のチョコチップクッキーに夢中になっている。
そして香さん親子は二人で
一切れのストロベリータルトをつつき合っていた。
この上ない平和な光景に、ふと笑みがこぼれる。
けど、次の瞬間――

二人の間のケーキ皿には、タルトが残り一口分
その一かけらに二人の視線がじっと注がれる。

「食べたい?」
「うんっ」
「じゃあ、どうしよっかなぁ」

と言うと、香さんはお皿を手に持って、少し引っ込めた。
ひかりちゃんの視線は皿から母親へと移る
戸惑いと、哀しみと、懇願。
すると、香さんは

「はいっ、どうぞ」

皿を再びカウンター上の、さっきよりひかりちゃん寄りに置いた。
彼女の眼差しがきらきらと輝く――
その微笑ましい光景が、わたしの心をざわつかせたのだ。

遡って今日の昼下がり、お客でごった返していた中
今までで見ない顔の老婦人が声をかけてきた。

「ずいぶんと忙しそうねぇ」
「ええ、普段は今日ほどじゃないんですけどね」
「こんなに大変だと、子供どころじゃないでしょ」

たまたま買い物ついでに寄ったという老婦人は
不躾にもそう訊いてきた。

「あ、いえ――今は保育園に行ってます」
「まぁ、そうなの?」

彼女はそう、少し驚いたようなそぶりを見せた。

「保育園っていうと、まだ小さいんでしょ
お母さんが恋しい盛りじゃない」

まるでわたしがこの店を続けているのが
我儘だと言わんかのようだった
――確かにそうかもしれない、と思うこともある
幼くして両親の愛情から引き離されてしまった身としては尚更。
それでも、今日のように帰ってくるなり鴻人が
保育園であったことを興奮した様子で
伝えようとする姿を見れば、そこもまた
あの子の大切な居場所なんだと
思い直すこともできるけれども。

でも、今のわたしにはケーキの最後の一欠けという
香さんのちっぽけな献身すら心に鋭く突き刺さった。

「やっぱりママよねぇ、香さんも」
「えっ?」
「さっきのケーキ」
「あ、あぁ。あれね。でもママとか関係ないかなぁ」
「そう?」
「だって、例えば餃子が1個だけ残ってたら
撩に譲っちゃうもの」

――ああ、そうだ。彼女は「母親だから」そうするんじゃない
それよりずっと前から、香さんはそうしてきたのだ
冴羽さんの、そして依頼人のことをまず考え、行動する。
それは決して自己犠牲なんかじゃない、なぜなら
彼らの幸福こそが香さん自身の幸福なのだから。

結局は人それぞれ、譲れないものも、喜んで差し出したいものも。
お店が休みの日には思う存分鴻人と遊んであげるのも
ゆっくりしたいところを我慢して、じゃない
せめてその日くらいはそうしてあげたくてたまらないから。
ポ●モンの名前も、ハンサムな特撮のお兄さんだって
鴻人がいなきゃ出逢えなかった世界
(あ、でももちろん私にとって世界一のハンサムは
今も昔もファルコンだけだからv)
ママ友の医師兼免疫学者に言わせれば、ポケ●ンも
サイエンス・スピリットを刺激されるものらしいしw

「それに、ちゃんと息抜きはしてるわよ、あたしも。
100円ショップでたまに買い物しまくったり
カラオケ行ったり、ケーキ食べ放題行ったり……」

あ、ずいぶんやっすい息抜きだわと満面の苦笑い。

「あたしでよければいつでも付き合うわよ」
「ありがと、美樹さん。でもね」

と言うと彼女は視線を愛娘へと向ける。

「あと何年かしたら、その息抜きに
ひかりも付き合ってくれるようになるかなって」

ああ、そうだ。わたしも最近は山には行けていないけれど
もう少ししたらまた行けるようになるだろう、もちろん3人で。

「――あっ、ひかり。おべんとついてるよ」

さっきの「残り一口」は、あくまで大人基準で
子供の口なら二口分はありそうだった。
でもそれを本当に一気に口の中に押し込んでしまったので
カスタードクリームが口の端に付いてしまっている。

「え、どこどこ」
「お口の右側」

といってもまだ左右の区別も難しい年頃
すっと香さんが手を伸ばす。
そして口に付いたクリームを拭うと
その指先をぺろりと舐めた。
美味しかったというように彼女は笑顔を浮かべる
それはケーキを食べていたとき以上に美味しそうな笑顔だった。

「ママおつかれさまの応援歌」が炎上 母親だけに自己犠牲を強いる? : J-CASTニュース