Groom's Blue

ニワトリが先か卵が先かという喩えがあるが
言葉に関して言えば、その言葉が指し示す
物なり現象なりが先にあって
後追いでその名がつけられる
というのがほとんどだろう。

なので「マリッジブルー」という言葉が生まれる以前から
結婚を前にした男女はあれこれ思い悩むことがあったのだろう。
特に名字も変わり、多くは住むところも変わる
花嫁の側はなおさらのこと。
けど私の場合は、仕事も住むところも変わらないという
気楽さのせいか、それとも意外にも持って生まれた性分なのか
「案ずるより産むがやすし」といった開き直りようで
むしろこれからの期待の方が不安を上回っていた。

その分、二人分の不安を背負ってくれてしまっているのが
この心配性の花婿のようで……

「なぁ冴子、いろいろ考えたんだが――」

と私が帰ってくるなり切り出すのは
決まってそんな憂鬱症の発作だった。
今まで何度、延期や破談を打ち明けられただろうか
かといって「気にし過ぎよ」と精神論で慰めても
この知性派の信頼すべき私の右腕は納得しない。
そのたびに理詰めで論破しなければならないのだ。

「届けは君の姓で出さないか」

――そう来たか。この展開は初めてだ
だがそのことについても二人で話し合って
結論は出したはずだ。

「戸籍の上では『槇村冴子』にするって二人で決めたでしょ!?」
「あ、あぁ……そうだが、けど」
「仕事上の旧姓使用については
ちゃんと上に話を付けたって言ったじゃない」
「それでも、何かと不都合は残るだろ?」
「えぇ……パスポートも免許も、口座の名義だって
変えなきゃいけないし、でも」

私も一呼吸おいて、彼の座るテーブルの真向かいに腰を下ろす。
最初に話し合ったときも、彼は自分が変えてもいいと言った。
もちろん彼にも仕事上のキャリアというものはある
でもそれはさまざまな事情で一度途切れてしまっていたから
ここで新たな姓になっても支障は私より少ないと。けれども、

「それ以上に、あなたに名字を変えられると
わたしが迷惑だって言ったわよね!?
今の時点でもあなたのことは、庁内でも
『野上家の入り婿』だの『嫁の七光り』だのと言われてるの。
これであなたが実際に名字を変えたら
ますますそういう目で見られるだろうし
わたしだって『亭主を尻に敷く鬼嫁』って
陰口をたたかれるのよ、わかる!?」

いや、尻に敷いているのは事実だろう
けど九州男児の妻のように、相手を立てつつ
実は思うとおりに操縦しているのは、槇村の方だろう。
でもあいにく、周囲の眼にはそこまでは映らないのだ。
そしてキャリアともなれば、現場にいたときとは違って
検挙数のような目に見える成績だけで上に行けるわけではない。
そういった“評判”も出世を大きく左右しうる
――足を引っ張られるわけにはいかない
彼らの正義の後ろ盾になるためには。

「ああ、そうだったな」
と言うと彼は席を立ち、慣れた手つきでエプロンをまとう。

「すぐ夕飯にするよ。あとは温めるだけだから」

けど私は彼の後ろを追うように立ち上がると
冷蔵庫を開けた。取り出したのは、缶ビール2本。

「まだあなたの言い分は聞いてないわ」

再びダイニングテーブルで向き合う
アルコールの力を借りないと、彼の本音は聞き出せないのだ。

「――やっぱり時間があり過ぎるのもよくないな
余計なことばかり思い出しちまう」
「何を思い出したの?」
「ずいぶん前のことさ。まだ警察を辞める前
高校の同級生がクラス一番乗りで結婚したとき
仲間で飲む機会があってな……」

そういえば彼の昔の友達のことは
ほとんど聞いたことが無かった。
所轄のときも、夜の付き合いなどには顔を出さず
香さんのいる家へ直帰だったのだから
卒業してからも顔を合わせるような
友人がいるというイメージが無かった。

「けど、そいつがワタナベっていうんだが」
「結婚する友達が?」
「そう。で、もう一人、そいつは区役所勤めなんだけど
『婚姻届は絶対に新字で出せ!』ってクダまき始めて――」

つまり「渡辺」の字で出せということか
これは些細なようで実は結構な落とし穴だったりする。
旧字は渡邊、渡邉、その他これらのバリエーションが
無数にあるといっても過言ではない。
そしてその、虫眼鏡で見なければわからないような違いを
気にする者は気にするのだ。
警察とて書類第一のお役所には違いない
供述調書の「辺」の旧字体の違いを
弁護士にあげつらわれ、ぐうの音も出ないほど
法廷で絞られた、という話も聞いたことがあった。

「そいつが言うには、一番シンプルに戸籍の字体を直す機会は
婚姻届を出すときなんだとか。ほら、『入籍』っていうけど
実際は夫婦二人の名前で新しい戸籍を作るわけだろ」

ああ、何となく話が見えてきた。

「ねぇ、もしかして『槇村』の『槇』の字のこと、気にしてる?」

どうやら図星のようだ。この兄妹は普段から
旧字体の「槇」の字で通している。
それについて、今は不都合は無くても
いずれ「槙」の字にした方がいいのではないかと
今から余計な心配をしているのだ。

「――『野上』だったら、どっちも小学校で習うような
シンプルな名前だろ? どっちも正字だし」
「あっきれたぁ」
「おいおい、何もそこまで言うことないだろ」
「確かに『槇村』の『槇』は古い方の『槇』だけど」

テーブルの天板の上に「眞」の字を書いた
指の湿気で線が浮かび上がり、間もなく消える。

「古い方っていったらまずコレだから、間違えようは無いわよね」
「あ、ああ。そうかもしれんが……」
「それにわたし、こっちの方が好きだな
ちょっと古風なところが、あなたらしくて。
その字をわたしも名乗れるの、楽しみにしてるんだから」

すると彼の頬がいきなり真っ赤に染まった。
もちろんビールのせいもあるだろうけれど
まぁ、香さんの兄なんだから当然のリアクションよね。
確かに彼には100%の感情論は通用しない
けど理詰めで外堀を埋めていって
とどめに情で訴えられると、わりとあっけなく陥落するのだ。
しばらくフリーズ状態だったのが、ようやくスイッチが入ったようで
この場に居たたまれないらしく、そそくさと席を立とうとする。
でもその動作が彼にしては珍しく危なっかしかったので

「いいわ」
と、かぶっていたエプロンを引ったくった。

「どうせあとは温めるだけでしょ?」

確かに2つの姓を公私で使い分けるのは
今から考えても不都合は山ほどある。でも
「野上」の姓を使い続けながら、こんな素敵な人と
同じ姓を、同じ字を名乗れる自分はなんて幸せ者なんだろうと思えた。

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