花鳥風月

リビングの窓から見上げれば、群青色の空に月が浮かんでいた。
下弦に近づきつつあるそれはすでに寝待月だろうか
東の地平線上にもビルが立ち並ぶこのアパートからでは
夜半近くにならないとその姿を拝むことはできない。
香は今日は夜の街に呼び出しをくらってしまい、俺が留守番。いつもとは正反対だ。
迎えに来るよう頼まれているわけでもなし、たまには一人で家飲みもいいだろうと
イエローラベルをグラスに空けた。

「月見酒、ってしゃれこんでるわけだ」

その声に振り返ると待ち人のご帰還だった。
当然飲んではきていただろうが、声も足どりもしっかりしている。
ただ、酔っているなと思わせたのは、手に提げた小さなビニール袋だった。

「ああ、これ?花屋の店先でおつとめセールだったのよ」

そろそろシクラメンって季節でもないでしょ?
(我が家のリビングでは毎年、どこで買ってきたのか
シクラメンの鉢植えが置かれている)
とあいつが掲げて見せたのは、手のひらに乗るほどの鉢植え。
普段、財布の紐の固い香がいくらおつとめ品とはいえ
衝動買いしてきたというのは多少理性が緩んでいる証拠。

「プリムラか……」

すでに蕾が綻びつつあったが、その一言にあいつは大きな目をさらにまん丸くしていた。

「撩、名前知ってんの?」
「知ってるも何も、花の名前ぐらいモテる男の必須科目だろうが」
「あんたが知ってるのはバラとチューリップだけかと思った……」

おいおい、というのは極端だがあいつの言うことにも一理あると思った。
花束にするようなものではないから知らなくても当然の花だった。

花鳥風月に惹かれるようでは男としては終わりだ、などと言っていたのは
いったいどこの爺さんだっただろうか。
自分もすっかりもっこりの世界は諦めて
そっちの世界に足を突っ込んでいたようなご老体だったから
その言葉にやけに真実味があった覚えがある。
そして、その言葉に俺自身心当たりがあったことも。

いつの間にか、街路樹の緑も季節によって色を変えることを知った。
近所のどこかで啼いている鳥の音を聞き分けられるようになった。
頬を撫でる風の感触で四季の移ろいを感じるようになった。
ああ、そういえばもうそろそろどこかから鶯の初鳴きが聞こえてくるころだ。
そんなこと、昔は全く気にも留めなかったのに。

だがそれが、男としての衰えに反比例しているかというとどうなのだろうか。
――だいたい、月だけは昔からよく眺めていた
それこそ戦場に身を置いていた頃から。
花・鳥・風・月の順でいえば、云わば『上がり』だというのに。

それに、俺に花の美しさを教えてくれたのはあいつ――香だった。
彼女への愛おしさは未だもって変わることはない
そしてそれを伝える術も。

「あたしにも一杯ちょうだい?」

どこかとろんとした口調であいつが縋る。

「もう酔っぱらってるんじゃねぇかよ」
「付き合い酒じゃ酔えるものも酔えないって」

そう言って俺の懐に入り込むと、右手からグラスを奪って
中身の琥珀色のストレートを一口飲み干した。

「ったく、しょうがねぇな」

テーブルの上には、その名の由来どおりに真っ先に春を告げる小さな花。
小春日和の日差しを浴びながら綻びつつある花を愛でるのもいいだろう。
だが今宵はまず、もう一つの花を愛でようか。「香」という名の花を。