Good Night, Babies

あの小さかったひかりも3歳になって
そろそろベビーベッドじゃ収まりがきかなくなってきた。
かといってうちの場合、諸般の事情から『川の字』とはいかず
贅沢ながら子供部屋に一人で寝かすことになったのだが、

「じゃあ、行ってくるね」

それ以来始まった、我が家の新しい日課。

ひかりの部屋は下の階のリビングのすぐ隣
つまりはかつて香の部屋兼客間だったところだ。
そこの家具は上の空き部屋の一つに移して
同じく客間として使うことにし、がらんとした元・香の部屋に
子供用のベッドやら何やらを押し込んで、それらしく整えた。
そこに毎晩、ひかりを寝かしつけに行くのだ。

パジャマ姿の娘の手を引いて、すでに寝落ち寸前というときは
抱き上げて自分の部屋のベッドに寝かせては
眠りにつくまで傍についていてやる。
それはほとんど香の仕事だった。
別に俺が絵本を読んでやってもいいのだが
「どうせあんたその時間、家にいない方が多いじゃない」
と釘を刺された
母親としては、あまり日課をころころと変えたくないらしい。
ただでさえ、誰に似たのか眠りの浅い娘のこと
『入眠儀式』にこだわらざるをえないのも無理はない。
何しろ、さっさと寝ついてくれなければこっちが困るのだ。
子供の前では『親』でいなければならないが
そこからさきは俺たちの自由なのだから。

子供向けのテレビも消え、ようやく静かになった部屋で
一人、グラスにバーボンを注ぐ。
もう一つは香の分。
俺は子供の目の前だろうが好きに飲んではいるが
(もちろん、ゆっくりアルコールを楽しむことはできないが)
あいつはひかりが起きている間はそれどころではない。
とはいうものの、香を待っていてはロックの氷が融ける
一足先に味わわせてもらうことにした。
グラスを傾けながら、思い出すのは今日のCat'sでのやりとり。

腐れ縁の仲同士、齢の変わらない子供がいるものだから
コーヒーの肴にもついつい話題にのぼる。
この日は、マスター夫婦が川の字に寝てるっていうのを
ブロンド野郎が噛みついた。

「Do as Roman do in Rome(郷に入ったら郷に従え)っていうが
オレはどうしても納得できないね、その風習だけは。
そんなことをしてたら、いつまでたっても親離れできないんじゃないかい?」
「あら、小さいときは思いきり愛情をかけてあげるべきよ
たとえそれが甘やかしてるように見えなかったとしても」
「サエコ、キミのところはどうだい?」
「うーん、わたしに意見を求められても
特異なケースだから参考にならないと思うわ。
わたしも彼も仕事で遅くなったり早出することもあるから
同じベッドだと寝つけないもの。
それに、家に帰れないようなときは香さんに預けきりだしね」
「リョウ、オマエはどうなんだよ」

あくまでギャラリーとして議論を傍観するつもりだったが
いきなり矛先がこっちに回ってきた。

「もちろん子供部屋に一人で寝かせてるんだろ?
じゃないとカオリを独り占めできないからな」

そうこっちに目配せしてくる。
ああ、確かに今は一人寝させているし
その前は同じ部屋だが柵付きのベビーベッドに入れていた。
もちろん理由はお察しのとおりだ。
だが、赤ん坊なんて生物は俺たち大人の思いどおりにはならないもの
ときどき、夜中に耳をつんざくような泣き声を上げては
俺たちの邪魔をすることもしばしばだった。
そうなれば行為は中断、泣き止ませるのはもっぱら香の役目
結局、あいつの胸を占領したまま眠りにつくというのもしばしばだった。
今でも、夢遊病の気があるのか
夜中に半分寝たまま器用に階段を登ってきては
俺と香の間に割り込んでくることもある。

――それにしても香のやつ、遅いな
ひかりは寝つきがよくない方だから、30分かかるのもザラだが
もうすでに時計の長針が一周しようとしていた。
子供が起きてればできないあーんなことやこーんなことも
今まで我慢してきたのだから、それに付き合ってもらわねば。
俺はソファから立ち上がると、実戦でも滅多にしないくらい
極限まで足音と気配を殺して、子供部屋のドアを開けた。

「――おいおい」

香はというと、子供部屋のベッド――買い換える手間を省くのと
秀弥が泊りにきたときに寝かせるように、子供用にしては大きめのもの――
娘の隣で、添い寝したまま寝入っていた。
まだベビーベッドのときから、寝かしつけるときは
よくこうしていたようだ。
ただ物語を語って聞かせるだけでなく
こうして気配と体温を傍で感じていると安心するというのは
俺自身嫌というほど実感していることだ。
いつもは、ひかりが眠ったのを確認してから
起きてリビングに戻っていたのだが――
そういやここしばらく、あいつも忙しかったからな。

依頼が入って、ひかりを預けるほどではなかったものの
子供が寝た後はもっぱら仕事に充てざるをえない毎日だった。
もちろん昼間は母親業という、これまた結構な肉体労働
慢性的な寝不足になるのも無理はなかった。

その仕事もようやく片がつき、こっちとしても
香に労ってもらいたいのはやまやまだった。
かくなる上は、あいつを無理やり起こして
起きなくても担ぎ上げて強制確保して――って思っただろ、お前ら【笑】

昼間、Cat'sでミックの味方をしたのは意外にもかすみちゃんだった。
「やっぱり結婚しても、子供が生まれても
恋人同士の頃のままでいたいですもんね!」と
目をキラキラ輝かせていたっけ。
だが、それまで静観を決め込んでいた海坊主の言葉が
議論にぴしゃりと終止符を打ち込んだ。

「フンっ、恋人同士の頃のままだなんていっても
要は親になっても何も成長してないということだろ」

『子供』のままなら自分の楽しみを最優先したってかまわない。
だが俺たちはもう『親』なんだ、『大人』なんだ
優先すべきは子供のこと、自分以外の誰かのことだろ?

俺は、子供用にしては大きめの毛布を
二人が目を覚まさないように静かに引っ張ると
その端をそうっと香の上に掛けてやった。
まぁいいさ、もっこりなんてのは夜やるものと決まってるものじゃなし。
そして、極力音をたてないようにドアを閉めた。

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