Groom's Blue

ニワトリが先か卵が先かという喩えがあるが
言葉に関して言えば、その言葉が指し示す
物なり現象なりが先にあって
後追いでその名がつけられる
というのがほとんどだろう。

なので「マリッジブルー」という言葉が生まれる以前から
結婚を前にした男女はあれこれ思い悩むことがあったのだろう。
特に名字も変わり、多くは住むところも変わる
花嫁の側はなおさらのこと。
けど私の場合は、仕事も住むところも変わらないという
気楽さのせいか、それとも意外にも持って生まれた性分なのか
「案ずるより産むがやすし」といった開き直りようで
むしろこれからの期待の方が不安を上回っていた。

その分、二人分の不安を背負ってくれてしまっているのが
この心配性の花婿のようで……

「なぁ冴子、いろいろ考えたんだが――」

と私が帰ってくるなり切り出すのは
決まってそんな憂鬱症の発作だった。
今まで何度、延期や破談を打ち明けられただろうか
かといって「気にし過ぎよ」と精神論で慰めても
この知性派の信頼すべき私の右腕は納得しない。
そのたびに理詰めで論破しなければならないのだ。

「届けは君の姓で出さないか」

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2000.2/それが あたしだから

ティータイムのお客が去って、一息ついたCat's Eye
今はカウンターにいる香さんとひかりちゃん
その横にちょこんと座っているうちの鴻人だけ。
溜っていた食器洗いも片づいたし
わたしもようやくコーヒーの一杯も飲めそうだ。
何しろ、今日は寒かったからか
暖をとりに来たであろうお客たちで
さっきまでごった返していたのだ。
おかげで息子の保育園のお迎えも、ひかりちゃんのついでにと
香さんにお願いしなければならなかったほど。

その鴻人は、おやつのホットミルクと
好物のチョコチップクッキーに夢中になっている。
そして香さん親子は二人で
一切れのストロベリータルトをつつき合っていた。
この上ない平和な光景に、ふと笑みがこぼれる。
けど、次の瞬間――

二人の間のケーキ皿には、タルトが残り一口分
その一かけらに二人の視線がじっと注がれる。

「食べたい?」
「うんっ」
「じゃあ、どうしよっかなぁ」

と言うと、香さんはお皿を手に持って、少し引っ込めた。
ひかりちゃんの視線は皿から母親へと移る
戸惑いと、哀しみと、懇願。
すると、香さんは

「はいっ、どうぞ」

皿を再びカウンター上の、さっきよりひかりちゃん寄りに置いた。
彼女の眼差しがきらきらと輝く――
その微笑ましい光景が、わたしの心をざわつかせたのだ。

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1991.12/ポルボロン、ポルボロン、ポルボロン

紅茶を浸したマドレーヌを一切れ口にするだけで
過去の出来事が鮮やかに脳裏に蘇るなんてのは
小説の中だけの話だと思っていた。

「へぇ、沖縄のお菓子?」
「Yeah、美味しいから食べてみてよ」

そうミックはカウンターに箱を差し出した。
中にはギザギザとした細長い小判型の
きつね色をした焼き菓子の包み。

「あら、旅行? それとも仕事?」
「Not really(そうじゃないんだけどね)、ミキ
カイシャでそっちに取材に行ったのが
オミヤゲにってオフィスに買ってきたんだけど
そこでオレがウマいウマいって言うもんだから
カレがわざわざ取り寄せてきてくれたんだよ」
「へぇ、じゃあずいぶん新しい仕事にも
馴染んできたみたいね」

スイーパーとしての現役復帰が叶わなかったヤツは
かつてさゆりさんも籍を置いていたウィークリーニューズ日本語版の
専属ライターの職を得て、この秋から働き始めていた。
と同時にかずえとの新しい生活を始めていたが
どちらもどうやら順調にいっているようだ。

「ちんすこう、か」
「ファルコンは食べたことあるの?」
「いや、多分無いな」

と言いつつ、Cat'sにいる俺を除く全員
――といっても主夫婦と、数少ない常連だけだが――
が次々とヤツの土産に手を伸ばす。

「あ、でもせっかくミックが頂いたもの
食べちゃっていいのかしら」
「Don't worry、カオリ。家にはもう一箱
オレたち用にとっておいてあるから」

といってもその半分は今頃カズエが
キョウジュのところにオスソワケに行ってるけどね、と
これ見よがしにウィンクを投げかける。
それにもかまわず香は、じゃあ心置きなくとばかりに
一切れを口に含んだ。

「コーヒーに合いそうね」
とカウンターの向こうでこの店の美人ママが頷く。
その横でいかついマスターも無言で同意する。
香はというと、初めての味覚を
その大きな目を真ん丸に見開きながら
口の中で確かめているようだった。
ただ、少なくともそのリアクションからは
決してあいつの好みじゃないというわけではなさそうだ。

「撩も食べてみれば?」

ようやく口の中が空っぽになった香の
第一声がそれだった。

「いいよ、どうせ甘いんだろ」
「そんなでもないわよ。たぶん撩も
大丈夫だと思うけどなぁ」

もちろんそれは言い訳で、本音は
ミックの土産物など食う気になれないというところだ。
だがその言い訳を真に受けた香は、

「食べず嫌いはよくないぞっ」

と、もう一包みを手に取ると、その封を開け
中身を二つに折ると、その小さい方の一欠けを
俺の口へと押し込んだ。

――Polvoron, polvoron, polvoron....

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【R15】Time, Place, Occasion

前後へと滑るように動くもっこりヒップ
ソファの背もたれの向こうに、それだけが
まるで水面から浮かび上がったかのように揺れていた。
いつものようにリビングで“芸術鑑賞”に耽る昼下がり
おかげで掃除機の轟音も耳に入らないほど
夢中になってしまっていたが
「絵に描いた餅」より触って食える餅の方が
良いに決まっている。

言っておくが俺はそれほど“尻フェチ”というわけじゃない
日本の男たちが余りにもそのパーツを蔑ろにしているだけだ。
女も女で、それをできるだけ小さく見せかけようとしているが
それ相応のちょうどいいサイズ、そして質感というのがある。
その点、香のヒップは俺の好みにぴったりといえる
程よく締まった丸みを描く脚線から続くそれは
もっちりとした絶妙な弾力を帯び、その感触は
いつまでも触っていても飽きないほど。
だから、ごわごわとしたデニム越しでも
思わずその双丘に手が伸びてしまうのは当然のことで、

「リョオっ!!」

普段だったらハンマーを振りかざすところだが
今のあいつの得物は掃除機のパイプで
それを吸い口ごと構えられると、慣れない武器なだけ
こちらも怯んでしまう。

「ちょ、ちょ――そこまで怒ることないだろ」
「いーえ、撩。ついでだから
前々から言おうと思っていたことだけど
あんた、そういうことやめてくれないかしら」

香は組んだ腕を掃除機のスイッチの上に置くと
じっとソファ越しに俺の目を見据える。

「そういうことって……どゆこと? リョウちゃんわかんなーい
とおどけて逃げようとすると、呆れたように
相棒は溜息をついた。

「そうやっておしり触ったり、胸触ったり
無理やり抱きついたりキスしたり――
それだけならまだいいわよ、でもあんた
そのままもっこりに持ち込もうとするじゃない///」

頬こそ赤く染まってはいるが、据わった眼は変わらない。

「でも香ちゃん、気持ちよくてアンアン言ってるだろ」
「///そりゃあ、そうかもしれないけど――でも、同じ美味しいケーキなら
自分で食べても無理やり口の中に押し込まれても
美味しいのは変わらないけど、でも
やっぱり自分でちゃんと食べたいじゃない」

基本的に旨いものには目の無い香の喩えは
全年齢向けに判りやすいものではあったが、

「――イヤ?」
「イヤに決まってるでしょっ!」

と再び掃除機を持ち上げんばかりに感情を爆発させた。

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LOVE ADDICTION

一仕事片づけて、次の依頼をあくせく探す必要の無い昼下がり
いつものようにリビングのソファに横になりながら
ぼんやりと紫煙をくゆらす。
持ち手を除いてたっぷりと灰にすると
その「吸い殻」と化した煙草を灰皿に押しつける。
そして次の一本をと、ポケットに手をやるが
そこにあったのはぺしゃんこになった空のパッケージのみ。
仕方がない、とストックを置いてある引き出しへと
重い腰を上げようとすると、

「キリのいいとこでやめとけばぁ?」

と娘に立ち塞がれた。

「リビング禁煙とかうるさいことは言わないけど
これはいくらなんでも吸い過ぎなんじゃないの?」

そう言いながら、あてつけのように
消臭スプレー(煙草用)を
煙をたっぷりと吸い込んだソファに
ばしゅばしゅと吹きかけていく。
ガラステーブルの上には、灰皿から
一箱分の吸い殻の噴煙が上がっていた。

「だいたい、なんで吸うのかなぁ
こんな百害あって一利も無いようなもの。
ほんっと、わけわかんない」
「そりゃお前が吸ったことがないからだよ。
もしお前がこいつを吸って吸って吸いまくって
ニコチン中毒になってみれば判るさ、
たとえ身体には毒でしかなくても
これを吸わずにはいられないってことが」

釈然としない、と太々と書かれているかのような顔で
ひかりは俺を睨みつけていた。そのとき俺は思い出した
数日前の台詞、それがどんなに的外れな言葉だったかを。

――それは君が本当の恋を知らないからさ。
 もし君が、心の底から誰かを好きになったなら判るさ
 本当の淋しさってやつが。

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Prince Charming in the City

「まさかあの子が結婚するなんてねぇ」

と言ったのは、高校時代からの友達だった。
そして「あの子」というのは、あたしたち共通の
つまり高校の後輩。彼女が「まさか」と言われたのには
それなりに理由があって、というのも高校時代
あたしに直接ラブレターを渡しに来たのだ。
その場にちょうど居合わせたのが絵梨子なのだが

「しかも、玉の輿だったらしいわよ」

と、大して興味無さそうに補足する。
確かに絵梨子にはどうでもいい話だ、彼女が選ぶとしたら
全身これ見よがしのブランド品で固めた成金よりも
たとえ安物でもセンス良く着こなす貧乏人なのだから。
そういう彼女のぶれない尺度があたしは今も好きなのだ。
でも――

その事実を絵梨子に伝えたであろう
かつてのクラスメイト達の口ぶりが
たとえそれがあたしの想像に過ぎなくても
さっきから脳裏を離れなかった。

――羨ましいわね
――まるで映画化おとぎ話よねぇ
――憧れちゃうわ
 それにひきかえ……

最後の一言は完全にあたしの勝手な思い込みだ
なぜなら彼女たちは今のあたしのことは知らないのだから。

「ただいまぁ」

絵梨子のところから帰ってきたら、玄関には
乱雑に脱ぎ散らかされた大きな靴。

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36.2℃

灯篭流しの小舟が川面に揺れる。
彼女はその中の一隻に、亡き恋人の形見をそっと置いた
給料3ヶ月分、というほどではない指輪
けど彼女はずっとそれを左手の薬指に嵌め続けていたのだ
彼が自ら生命を絶ってから、ずっと。

亡き人の死の真相を知りたいと依頼があったのは
彼の新盆を前にしてのこと。
あの人が死ぬ理由なんて考えられないと
訴える依頼人の声の方がよっぽど
まるで今にも死んでしまいそうなほどだった。
その彼の職業が議員秘書と聞いて
ざわめきたったのはむしろ外野の方。
すわ政界スキャンダル発覚か、疑惑の政治家も
今度こそ一網打尽かと。だが手ぐすね引いて待っていた
冴子やミックの思惑は外れて、彼が死ななければならなかったのは
仕事は別の、それでものっぴきならない事情のせいと
遺された恋人が知ったとき、一瞬、拍子抜けしたかのようだったが
それでもようやく肩の荷が下ろせたようだった。

ゆっくりと流れていく小舟を見送る彼女の傍に
もう一つ、ひょろりとした頼りない影。
それは彼女の同僚のものだった。
恋人を喪い哀しみに沈む彼女を
ただ黙って見守るだけしかできなかった青年。
そこには下心が無かったといえば嘘になるだろう
けど、そんな臆病だが誠実な人柄がきっと
彼女が一歩を踏み出す支えになるに違いない。
その左手の薬指にはまだ指輪の跡が残っているが
それもいつかはまたふっくらと薄れていくのだから。

送り盆は、夏の終わりの始まり
日が落ちた後に吹く風は、確かに1週間前とは違う
水面の上を吹き渡ればなおさら。
所在なさそうに揺れる彼女の左手を
彼の右手がそっと掴んだ。
手のひらと手のひらという僅かな接点でも
そこから通い合う温もりもあるはず――

「もうこれで、あんたもお役御免ってわけだ」

耳元からいたずらっぽくかかる声。

「けっ、あんなひょろひょろに
ユミちゃんを任せられるかよ」
「でも二人、なんだか良い雰囲気じゃない
これは一気に、ってのもあるかもよ」

そう香はにんまりと笑みを浮かべる
まるで恋愛相談のプロみたいな口ぶりで。
まぁ確かにあの二人を、事情を知らない他人が見れば
普通にカップルだと思うだろうが。

「ねぇ撩」
「ん?」
「あたしがもしいなくなったら
ちゃんと次の相棒探しなさいよ」

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