高望み 深望み

人間、物事が予想外にうまくいってしまうと欲が出てきてしまうもので。

槇村香はその夜、一晩中眠れなかった。
その日の昼間に何かがあったというわけではない
ただ、それまで胸の奥に積もり積もっていたものが
とうとうその晩、閾値に達してしまったのだ。

約ひと月前、ずっと心の底から好きだった男に
「愛する者」と言ってもらえた。

なのに、二人の日常はそれ以前のままだった。
男は昼はナンパに明け暮れ、夜は飲み歩いてツケを溜めてくる毎日。
優しい言葉も、眼差しの一つすらなく
二人の関係は相変わらずただの同居人同士に過ぎなかった。

もちろんそのことについて彼女の落ち度は100%無く
あの優柔不断な種馬男の有言不実行が総ての元凶である。
だが、心優しくなおかつ向上心に溢れる香は
何も変わらない現状について心を悩ませ続けていた。

たとえ思い悩み苦しむだけの一晩であろうとも
それは物事を整理して考えるには充分な時間である。

――あたしが撩に求めていたのは、そもそも何だったんだろう?

彼に愛されること?撩の恋人になること?
否、あたしは――あいつにパートナーとして認められたかったんだ。

確かにあの男に対してほのかな恋心を抱いたことはあった。
でもそれは10代の頃の遠き想い出であり
写真を胸に抱えては甘酸っぱい疼きに心が満たされる
そんな恋に恋するお年頃だったに過ぎない。

もちろん今でも撩に対して恋愛感情は抱いている。
でも香はそういうことに対しては淡白な方であった。
好意を持っていても、周囲の数ある恋敵とは違って
相手を何とか振り向かせようと、自分からモーションをかけることはない。
その辺の慎ましやかさは周りの評価以上に低い
女性としての自分自身に対する評価の裏返しなのだが、それはともかく。

その代わりに、彼女が精魂を傾けてきたのは
撩の足を引っ張らないようにすること。
そのためにはできるかぎりの努力を積み重ねてきた。
海坊主や美樹に弟子入りし、彼の教えてくれない技術を学び
ときには銀狐やミックなど、パートナーに仇なす者に向かい
彼に代わって決闘を挑んだ。自分の実力を撩に認めさせるためにも。
彼の片言隻語にも注意深く耳を傾けてきたし
ちゃらちゃらした格好をするなといわれれば忠実にそれを守った、
もともとそういう格好はあまり趣味ではなかったのだけど。
女を捨てろといわれれば喜んで捨てる覚悟だった。

求めても得られないものよりも、今この手の中にあるものを考えよう
――撩の背中がすぐ傍にあるじゃないの。
それは香にとって何よりの手本であった。
10代の頃憧れた広く逞しい、そして暖かな背中
ときにそれを盾にして誰かを護る、他人のために闘う男の背中。
香はそれをずっと追いかけ続けてきた。
物言わぬ背中から何かを学び取ろうと必死で感覚を研ぎ澄ませてきた。
それをだれよりも近くで見つめ続けることができる
これ以上の特等席など考えられない。

真正面から微笑みかける表情は他の誰かに譲ってもかまわない。
その代わり、この特等席だけは守りたい。何があっても――

そう簡単に物事がとんとん拍子にうまくいくはずがない
それは今までの人生が何より物語っている。
ちょっと欲が出てしまったのだ
それで叶いそうにない夢も叶うと思ってしまっただけのこと。
無論、夢は諦めるつもりはない
たとえ墓場に持っていくつもりの夢であっても。
でも、まずは手の届く目標から始めていけばいい
その延長上にきっと、必ず夢は待っていてくれるから。

――まだそのとき、槇村香は知らなかった
撩の恋人になる方が、彼の相棒になるよりも容易いということを。