tax heaven

浮かない顔をして香が帰ってきた。
毎度毎度の俺のツケの清算日、それでも今日は
ようやくそれに見合った額の報酬も振り込まれて
これで大手を振って夜の街へと繰り出せると
思ったにもかかわらず。

「どうしたんだよ、そんなシケた面して」
「ただいま、りょう――あっ」

あいつが反応したのは、愛しのパートナーの
心配そうな顔ではなく、その奥の
リビングのテレビに映し出された夕方のニュースだった。

「これ――」
「ああ、パナマ文書か」

最近世界中を騒がせている、カリブの課税回避地の
法律事務所の顧客情報問題。
そんな、世界中の富の半数以上を占める
0.1%の富裕層だけが顔を真っ青にさせるような、
万年経営不振の冴羽商事には縁もゆかりも無いような
話かも知れなくても、俺たちだって出るところに出れば
「小金持ち」程度にはなるのかもしれないのだ。

「Cat'sでばったり行き会ったんだけど
『ピーチ』の桃子ママが憤慨してたわよ。
『税務署ももっとこういうところから取りなさいよ』って」

相手が個人事業主と見るや否や、馬鹿正直に申告しても
隠している収入はないか、違法に経費で落としてる項目は無いかって
根掘り葉掘り、重箱の隅を突っついてくるんだから――と
得意の声色で再現してみせるから、俺も当然
ママとは長い付き合いなので、その様子がありありと目に浮かぶ。

「美樹ちゃん困ってたろうなぁ」
「もう、見かねて間に入ってくれたもの。
じゃなかったら明るいうちに帰れなかったわ」

美樹と海坊主なら、どちらの苦労もよく判っているはずだ。
喫茶店Cat's Eyeの経営者として、そして
裏の世界で、表には出せない稼ぎを得る者として。

あいつらには、両立させるのは一苦労というデメリットもあるが
喫茶店主という真っ当な肩書と収入源がある。
店での微々たる稼ぎだけをおとなしく申告さえしていれば
派手なことさえしなければお上に目を付けられることはない。
一方で、俺たちにも「冴羽商事」という名義こそあるが
実体のないペーパーカンパニーで、その実質的な本業というのが
――スイーパーの派遣、という国税どころか
素直に申告したら警察すら黙っちゃいない裏稼業。
なので、そこで得た収益は冴羽家の家計簿ともども
必要書類を知り合いの税理士崩れに渡して
どこに出しても文句のつけようのない申告書に
作り変えるというのが、確定申告の時期の俺たちの年中行事だ。

だが、それとはまた別に「裏の裏」の仕事――
それそのものが全くの凶悪犯罪、という依頼も俺たちは請け負っている。
数は普通の依頼よりずっと少ないものの
ハイリスクなだけに報酬もハイリターンだ、
その額面を素直に、いくら項目を入れ替えたとしても
申告すれば、途端に国税当局に目を付けられるほどに。

だからそっちの収入は厳重に扱う必要がある。
それこそスイスのプライヴェートバンカーや、タックスヘイヴンなど
表の世界の大金持ちが駆使する手法をフル活用して。
その辺のことは以前は教授に丸投げしていた
香の目には一切触れさせずに。今ではあいつも
俺の「裏の裏」の仕事までしっかりマネジメントはしているが
さすがにマネーロンダリングまがいのやり方までは手には負えない。
ただ、報酬の額まではしっかり把握済みだ。それに、教授の方も
最近ではかずえの方に実権を任せているのだろうし。

香は、ちらちらと不安そうにテレビの方を見遣る。
その顧客名簿の調査に当たっていたジャーナリストたちが
それらをネット上に公開したというのだから
気が気じゃないのも当然だろう。

「安心しろ。ミックが一とおり調べたそうだが
俺たちの名前も、使っている別名義も出てこなかったそうだ」
「そう――」
「あいつだって調べるからには本気に決まってるさ
なにせ他人事じゃないんだからな。それに
あの事務所とは確か取引きは無かったはずだ
今回のことでとやかく言われることは絶対に無い」

そう言い切ったところで、香の不安は消えないだろう。
あいつが恐れているのは司直や世間の目ではなく
香自身の良心なのだから。
あの順法精神の塊にとって、たとえどんな手段であっても
自分の得た収入を真っ当に社会に還元できないということは
心苦しい現実に違いなかった。

「まぁ、稼ぐだけがっぽり稼いで
出すのは一銭たりとも出したくないっていう
ハゲタカ野郎どもと一緒にされたくないのは
判らんでもないがな」

俺だって、ああいう連中にはヘドが出る
たとえそいつらが俺たちの上得意だとしても――
ならば、その金を片っ端から巻き上げて
「真っ当な使い方」をしてやればいい。
それこそまさに「資金洗浄」、money launderingじゃねぇか。

そうやって巻き上げるだけ巻き上げて
貯め込めるだけ貯め込んだ泡銭の使い道は
決めていないわけじゃない。
とりあえずは“生命保険”、そんなの俺が入れるわけがないから
俺にもしものことがあったら、その金は香の懐に入るよう
準備は整えてある。その金があれば、娘を連れて
全く違う土地で新しい暮らしを始めるにも
この街に留まって慎ましく生きていくにも充分すぎるはずだ。
もっとも、当のひかりもずいぶん大きくなっちまって
学費はもうしばらくはかかるだろうけど、それだって
あのしっかり者の香が貯め込んでいるであろうへそくりだけでも
何とかなるくらいまで先は見えつつある。

運よくあいつが俺たちの手を離れたら――
そろそろ考えなきゃならないのが“老後”ってやつ
当然、年金も俺には無いのだし
香のだけでは心もとない。だから
この仕事が続けられなくなったら
貯め込んだ金で――とは考えてはいるが
そこまで長生きできるとは正直思ってはいない。

となると、この膨大な泡銭は手つかずのまま
相続税の払えない遺産として香の手に渡ることだろう。
まぁ、あいつのことだから最初からそんな金は
当てにせずにせっせと貯えてはいるはずだ。
なら、それはそっくりそのままひかりたちのところに――いや
前にさゆりさんから聞いた話を思い出した。
ずいぶん先のことという前提だろうが、香は彼女に
自分にもしものことがあったときのことを託していたらしい。
俺には何も知らせなかったのは、そのときにはきっと
俺もまたもうとっくにこの世にいないと思っていたのだろう
賢明な判断だ。

そして、「わたしも同じようなことを
香さんに伝えたんだけど――」と
彼女が電話口で読み上げたリストにあったのは
児童養護施設や、地元の外国人やシングルマザーなどの
支援団体といった、あいつが金と名前は出せないものの
手と口だけはせっせと出している連中たちの名前だった。
その中には大きなNGOの名前もあったが
それはさゆりさんが紹介したものだろう。

強欲な金持ちから巻き上げた後ろ暗い金が
巡りめぐって、ゆくゆくは明日の希望すら持ち得ない弱者が
今日を生きるためのわずかな物理的な救いになる。
それを可能にしているのが、結局のところ
プライヴェートバンカーであり、租税回避地なのだ。

「ま、要はこのパイソン――いや、俺たちと同じさ
タックスヘイヴンってのも。
使いようによっちゃ、誰かに害をなす凶器にもなれば
誰かを守るための道具にもなる。
あとは使う人間の“ここ”次第だな」

と、セクシャルにならない程度に
香の左胸を手の甲で軽く触れる。
どこか釈然としないものは残りながらも
あいつの口元にようやくいつもの笑みが
軽く戻ったのを見て、俺の口角も
少しだけ持ち上がったようだった。

パナマ文書、約400の日本在住者・企業が関与 (写真=共同) :日本経済新聞